442 / 505
大きな翼 9
「奥様、少しピアノを弾いてきてもいいですか」
「春子、もちろんよ」
洋館にはグランドピアノが2台もあったので、そのうちの一台を自由に使わせていただいているの。
私が奏でるメロディは『故郷』
この曲の、切なく温かなメロディが好き。
私がピアノ講師の老婦人の家で働くようになってから、10ヶ月近くが過ぎていた。
信じられない程、何不自由ない生活よ。住み込みの小間使いとして雇われたと思ったのに、そうではなかった。
まるで実の娘のように、優しく丁寧に扱っていただいているわ。。
ここで私は教養と知性を身につけていくの。
雪くん、あなたと堂々と並べる日を目指して。
私が雪くんに抱く気持ちも少しずつ変化しているみたい。最初はか弱い男の子だと思った。でも話せば話す程、自分の意志を持っていて、実は志のある強い人だと気付いたわ。
私のことを好いてくれて……私の心に春風を呼んでくれた雪くん。
今頃、あのお屋敷で何をしているの?
背もまた伸びた?
そしてお兄ちゃんたちは……皆、元気にやっているかしら。
あぁ駄目だわ、今日は集中できない!
ピアノを弾くのをやめて窓を開けると、風に乗って懐かしい香りが届いた。
金木犀? こんな冬に……?
身を乗り出して辺りを見渡すと、壁にもたれる、黒髪の男性の姿が見えたの。
私はすぐに分かった。だって私のお兄ちゃんは誰よりもかっこいいのですもの!
慌ててショールをまとって、駆け下りた。
****
お兄ちゃんが帰ってから、私の胸はドキドキしていた。
あの雪くんが英国に留学したなんて! 雪くんはあの冬郷家から飛び出せない人だと思っていたのに、そんな行動力があったなんて、かっこいいわ。
私も……変わってもいいのかしら?
実は奥様からある誘いを受けていた。
今度、お兄ちゃんに会ったときに相談してみようかな?
お兄ちゃんの意見を聞きたいな。
****
「瑠衣~ 君とロンドンに行くのは久しぶりでワクワクするよ」
「アーサー、ごめん。少し静かにして」
「あぁごめんな。眠いよな」
「昨夜……君がなかなか寝かしてくれないから……」
「さぁ俺にもたれて」
列車の個室で、僕とアーサーは並んで座っていた。
席は4席あるのに……
だがそれがいい。
いつも傍に温もりを感じていたいから。
口では冷たいことを言っても、僕の心はアーサーに溶かされていく。
「冷えるな」
「ストールを巻いているから大丈夫だよ」
「いや、足下がスースーするだろう」
「そういえば、隙間風が」
「冬の英国は寒いんだよ」
アーサーが優雅な手つきで僕の膝にコートをかけてくれる。
「君のコートが傷んでしまうよ。それにアーサーも寒いだろう」
「じゃあ俺もいれてくれ」
「も、もう――」
確信犯のように、明るく笑いながらアーサーがコートの下で僕の手を握る。
「昨日はごめんな」
「……激しかったよ」
「海里と張り合ったんだ」
「はぁ?」
悪戯なブルーの瞳に、艶やかなアッシュブロンドの英国紳士。
こんな麗しい人に夜な夜な求められて、ふたりで昇りつめられる幸せ。
僕は今とても幸せだ。
「機嫌直ったな」
「どうしてわかるの?」
「ここが緩んで、春の女神のようだ」
そっと頬を撫でられて、耳元で甘く囁かれて……
僕はストールに顔を埋めることになった。
「キザな人……」
「英国紳士だよ?」
「もう……」
「瑠衣、少し……眠って、俺にもたれて」
「うん……ありがとう」
ロンドンまでの小旅行。
君となら、どこまでも行くよ。
君は僕の大きな翼だから。
どこまでも一緒だ!
ともだちにシェアしよう!