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大きな翼 9

「奥様、少しピアノを弾いてきてもいいですか」 「春子、もちろんよ」  洋館にはグランドピアノが2台もあったので、そのうちの一台を自由に使わせていただいているの。  私が奏でるメロディは『故郷』  この曲の、切なく温かなメロディが好き。  私がピアノ講師の老婦人の家で働くようになってから、10ヶ月近くが過ぎていた。    信じられない程、何不自由ない生活よ。住み込みの小間使いとして雇われたと思ったのに、そうではなかった。  まるで実の娘のように、優しく丁寧に扱っていただいているわ。。  ここで私は教養と知性を身につけていくの。  雪くん、あなたと堂々と並べる日を目指して。  私が雪くんに抱く気持ちも少しずつ変化しているみたい。最初はか弱い男の子だと思った。でも話せば話す程、自分の意志を持っていて、実は志のある強い人だと気付いたわ。  私のことを好いてくれて……私の心に春風を呼んでくれた雪くん。  今頃、あのお屋敷で何をしているの?  背もまた伸びた?  そしてお兄ちゃんたちは……皆、元気にやっているかしら。 あぁ駄目だわ、今日は集中できない!  ピアノを弾くのをやめて窓を開けると、風に乗って懐かしい香りが届いた。  金木犀? こんな冬に……?  身を乗り出して辺りを見渡すと、壁にもたれる、黒髪の男性の姿が見えたの。  私はすぐに分かった。だって私のお兄ちゃんは誰よりもかっこいいのですもの!  慌ててショールをまとって、駆け下りた。 ****  お兄ちゃんが帰ってから、私の胸はドキドキしていた。  あの雪くんが英国に留学したなんて! 雪くんはあの冬郷家から飛び出せない人だと思っていたのに、そんな行動力があったなんて、かっこいいわ。  私も……変わってもいいのかしら?  実は奥様からある誘いを受けていた。  今度、お兄ちゃんに会ったときに相談してみようかな?  お兄ちゃんの意見を聞きたいな。 **** 「瑠衣~ 君とロンドンに行くのは久しぶりでワクワクするよ」 「アーサー、ごめん。少し静かにして」 「あぁごめんな。眠いよな」 「昨夜……君がなかなか寝かしてくれないから……」 「さぁ俺にもたれて」  列車の個室で、僕とアーサーは並んで座っていた。  席は4席あるのに……  だがそれがいい。  いつも傍に温もりを感じていたいから。  口では冷たいことを言っても、僕の心はアーサーに溶かされていく。 「冷えるな」 「ストールを巻いているから大丈夫だよ」 「いや、足下がスースーするだろう」 「そういえば、隙間風が」 「冬の英国は寒いんだよ」 アーサーが優雅な手つきで僕の膝にコートをかけてくれる。 「君のコートが傷んでしまうよ。それにアーサーも寒いだろう」 「じゃあ俺もいれてくれ」 「も、もう――」  確信犯のように、明るく笑いながらアーサーがコートの下で僕の手を握る。 「昨日はごめんな」 「……激しかったよ」 「海里と張り合ったんだ」 「はぁ?」  悪戯なブルーの瞳に、艶やかなアッシュブロンドの英国紳士。  こんな麗しい人に夜な夜な求められて、ふたりで昇りつめられる幸せ。  僕は今とても幸せだ。 「機嫌直ったな」 「どうしてわかるの?」 「ここが緩んで、春の女神のようだ」  そっと頬を撫でられて、耳元で甘く囁かれて……  僕はストールに顔を埋めることになった。 「キザな人……」 「英国紳士だよ?」 「もう……」 「瑠衣、少し……眠って、俺にもたれて」 「うん……ありがとう」  ロンドンまでの小旅行。  君となら、どこまでも行くよ。   君は僕の大きな翼だから。    どこまでも一緒だ!

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