489 / 505

霧の浪漫旅行 26

日本――    海里さんと柊一さんが渡英してからも、冬郷家には相変わらず平穏無事な時間が流れている。広大な屋敷の留守を預かる身としては、そのことに安堵している。 「テツさん、おはよう。今日はレストランの営業日だな」 「あぁ、人の出入りが増えるから気を引き締めていけ」 「了解!」  冬郷家の屋敷の一部は、森宮グループの営業するレストラン・カフェとして人気を博してした。一時期は危うかった冬郷家が、財政を立て直すことが出来たのは、このお陰だそうだ。  だから最大限気を遣って、身支度を調えていく。前髪を固めると、鏡に映る顔は、瑠衣さんに面影が似ていると感じ、懐かしい気持ちになった。  おれもまた会いたいな。  おれの従兄弟の瑠衣さんに。 「桂人、格好いいな」 「そうかな?」 「お前はモテるから心配だ」 「テツさんこそ、テラス客がいつも庭で働くあなたを目で追っているよ」 「桂人はよく可愛い女学生さんからLove Letterをもらっているな」 「あれは……困るんだ……どうしたらいいのか分からなくて……断るのも大変で」 「桂人には俺がいるもんな」 「ふふっ、そうだよ。テツさん。おれはテツさんのものだから」 「そうだ、桂人も俺のものだ」  身を屈めて、まだベッドにいるテツさんにキスをした。  唇と唇を合わせる行為がこんなに気持ちよく、安心できるものだなんて知らなかったよ。 「甘いキスだな。どこで覚えたんだか」 「おれの初めては全部テツさんとだよ?」 「可愛いな」  今日はレストランを利用されるお客様が、ひっきりなしだ。  忙しく夢中で働いているうちに、あっという間にティータイムの時間になっていた。 「あの……良いですか」  突然、窓際に座っていた女学生に呼び止められた。  いつものように差し出された封筒に困惑してしまった。 「申し訳ありません。そのようなものは、規則で受け取れないのですが」 「まぁ、そうなの?」  ん、この声は…… 「お兄ちゃんってば、私よ、春子よ。気付いていた?」 「え?」  桜色のワンピースに髪を綺麗に結い上げて……てっきり、どこかのお嬢様かと思った。 「私の顔を忘れちゃったの? この前会ったばかりなのに」 「い、いや――」  まるで一足早くやってきた春の妖精みたいだ。  おれの妹はこんなに美しく上品だったか。 「今日は奥さまと銀座に行ってきたの。それでね、午後は白江さんのお宅にお邪魔していたのよ」 「奥さまは?」 「夕ちゃんと朝ちゃんにピアノを教えているわ」 「あぁ、そうだったのか。春子、本当に綺麗になったな」 「本当? そうなりたいと思っているから嬉しいわ。あのね、お兄ちゃんにもらったリップが似合う人になりたくて」  春子の唇にも、一足早く春が舞い降りていた。 「お兄ちゃん、この前は雪くんの住所、こっそり教えてくれてありがとう」 「あ……悪い。勝手なことをした」 「ううん、知りたかったので嬉しかったの。AIRMAILを出すわ」 「よかった。なんとなく知りたいかと思って」  勝手なことをしたのに、春子は気を悪くするのではなく、心から喜んでいるようだった。 「雪也くん、春子からの手紙が届いたらきっと喜ぶよ」 「今、柊一さんと海里先生は英国なのよね。羨ましいな。羽があったら飛んでいきたい気分」 「春子もいつか行けるさ」 「そうね。夢を持つわ!」  本当に春子なら叶うと思った。  お前は将来……世界を羽ばたく鳥になる―― 「この手紙はね、お兄ちゃんへのお礼も兼ねて書いたお手紙よ。お兄ちゃん……改めて……幸せそうで良かった」 「そう言ってくれるのか」 「もう大丈夫。あの時はごめんね」 「いや、おれこそ驚かせた」  春子にテツさんとの関係を知られた時……最初は受け入れてもらえず、悲しませてしまった。それが気がかりだったが、今日の春子の表情は明るく澄んでいる。 「私ね、いろんな世界を見ている最中なの。もっともっと大きな広い心になりたいわ」 「ありがとう。春子のことはいつも応援している。おれはここから見守っているよ」 「お兄ちゃん、私達にはもう故郷はないけど、お兄ちゃんがいる場所が故郷になるのよ。ここにいてね。ずっとずっとここにいて」  春子の故郷になる。  何よりの嬉しい言葉だった。  おれの故郷も、ここだ。  テツさん、あなたがいるから――         

ともだちにシェアしよう!