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第2話

 エウリケに見送られて部屋を出たジェイは、廊下を奥へ進んでいったん外へ出た。  育ちすぎた花木がぽつぽつと植えられた裏庭にはすでに夕闇が落ち、薄桃色の花が白く浮かんで見える。  ジェイは、離れに繋がるタイル張りの外廊下を渡りながら、耳を立てて浴室の様子を窺った。  透かし彫りの格子が嵌った浴室の窓に灯りはなく、水音も聞こえない。どうやら、エウリケの言うとおり、先客のシウはすでに風呂を済ませて、無人のようだった。  水が貴重な荒野の町で家に浴室があるなんて、とんでもない贅沢だ。  普通は木桶で水を浴びるか、贅沢をするときは公衆浴場へ行く。もと娼館の利点は意外なところにもあるものだった。  飾り彫りの扉を開け、マッチを擦ってランプの明かりを灯すと、ジェイは上機嫌で上着を脱ぎ捨てた。  これもまた贅沢な、大きくて曇りのない鏡に、肉の薄い体が映し出される。  頭の上にぴんと立ったウサギの耳が、ぴくりと揺れる。  自分で切り揃えた甘い灰茶色の髪は、後ろ側を少し切りすぎて、ほっそりした首筋があらわになっている。  髪よりも濃い焦茶の大きな瞳は、鏡に映ったランプの明かりをきらりとはじいた。  色白の肌は旅の間に少し日に焼けて、頬や鼻先のところどころにそばかすが浮いていた。  ジェイは、ひとまとめに脱ぎ捨てたズボンと下履きを脱衣籠に放り込もうと顔をあげたところで、ふと気がつく。  使おうとしたところよりも一段高い戸棚に、暗い色の上着が几帳面に畳んで入れられている。  背後から、かたっとかすかな音がして、無人だと信じ込んでいた扉が内側から開いた。 「シウ!」  明かりを落とした浴室から上がってきた男は、黙ってジェイを見返すと、何事もない顔で髪を掻き上げ、濡れそぼった銀灰色の尻尾から滴を振るい落とした。 「ごめん、入ってたのか」 「……いや」  シウの髪も尾も、こめかみの上から突きでた大きな三角の狼耳も、ぐっしょりと濡れて墨色に見える。  ランプの薄明かりの中、なめらかな象牙色の肌を、水の珠が伝い落ちていく。  シウはぐっと眉を寄せ、切れ長の目を眇めると、鍛えられた身体を恥ずかしげもなく晒して、ジェイに歩み寄った。  上背だけでも頭一つ違う。伝令だけのジェイとは違う、戦うために練り上げられ、成熟した身体に威圧されて、ジェイは一歩後ずさりした。  ジェイの肩先をかすめて伸ばされたシウの手が、棚の中で、すかっと空を切る。 「……眼鏡なら、ほら」  ジェイは、上着の上にきちんと畳んで置かれた眼鏡を背伸びして手に取ると、見当違いのところを叩いているシウの手の中に押し込んでやる。 「先にパンツ履けよ、って思わなくもないけどな」  こらえきれずに噴きだしたジェイを黙殺して、シウは裸のまま淡々と眼鏡を掛け、拭き布を被って髪を拭いはじめた。 「灯り、つけてないのか?」 「必要ない」  シウは眼鏡越しに薄い灰青の目を伏せ、頷いた。  夜行性の獣たちはジェイよりずっと夜目が利く。薄暮の暗さで灯りを必要とするのは、ジェイと、鳥目のエウリケくらいのものか。ジェイは耳の先を揺らし、すんと鼻を鳴らした。 シウのほうから、仄かに良いかおりがする。 「シウ、なにか付けてる?」 シウは急に薄い唇を引き結んで眉を跳ね上げると、長身をかがめて、ずいとジェイの首元に顔を寄せた。 「なっ、なんだよ!」 「……おまえ、なんともないのか」  苛立ったように掠れた声と、すん、と耳元で匂いを嗅ぐ呼吸音を、ジェイの鋭敏な耳ははっきりと聞き取ってしまう。  間近に寄せられた胸板を滑り落ちていく水滴が、胸から腹筋へ、臍からさらに下へ伝い落ちていく。 「なっ……、なにが?」  同じ雄の身体だというのに、まるでいけないものでも見てしまったような気分になって、ジェイは慌ててそこから視線をそらし、身をよじった。 「……若いとは思っていたが、ただ幼いのか」 「だから、なんのことだよ」  上目使いになってしまうのが悔しいが、精いっぱい力を込めて睨み返すと、シウは首を振り、身体を離した。 「いや。いい」  シウは手早く体を拭き、黒を基調とした隙のない衣服で身を包む。 肌が隠されたことに何故だか安堵すると同時に、素裸の自分が言いようもなく恥ずかしくなって、ジェイは慌てて浴室に飛び込んだ。 「ジェイ」  扉を閉めかけたところで、シウが声を掛けて呼び止める。 「な……っんだよ!」 「今夜は、部屋でおとなしくしていろ」  言葉少なに、忠告めいたことをいうシウに、顔を赤くしたままぶっきらぼうに頷き返す。 「……そうするつもりだったよ」 「ならいい」  ジェイは背を向けて、脱衣室を出て行った。  今日は、やっぱりなにかあるのだろうか?  不可解なまま、ジェイは首をひねりながら浴室の扉を閉めた。  浴室の中は、ほのかに甘い香りのする蒸気に満たされていた。  湯船に溜めたたっぷりの湯から香る花の匂いや、エウリケが好む上等の石鹸の香りに紛れて、先ほどシウの首元から香ったのと同じ、胸のざわめくような残り香を感じる。  掠れた声と鍛えられた胸板を思い出して、ジェイはぶるぶると激しく頭を振った。  女のものならともかく、雄の裸が目に焼き付いて離れないなんて、絶対におかしい。  戸惑いを押し流すように勢いよく、桶に掬った湯を頭から被った。  石鹸を泡立てて、髪と、ぴんと突き出た耳も洗う。  布に取った泡で薄っぺらい身体をこすり、尾骶骨の上にちょこんと生えた、灰茶色の尻尾にそっと泡を擦りつけた。 「ん、ぅ……っ?」  獣人の尻尾は急所だ。普段から気を付けて、大事に洗っている小さな毛皮の突起から、普段とは違う、奇妙にぴりりと震えるような違和感が、尾骶骨から腰の前のほうにかけて走った。  おそるおそる、濡れた毛の間をかき分けると、背筋がぞくぞくと粟立って、気持ちのいいような、怖いような刺激がある。  むずむずと臍の下が疼きだし、ジェイは急に怖くなって、慌てて泡を流し、湯船に飛び込んだ。  木で組まれた湯船は、水気による痛みを防ぐために花の香りの香油を塗りこんである。  目を閉じて、爽やかな白い花の香りがする湯気を鼻腔からいっぱいに吸い込むうちに、ざわついた気持ちも次第に落ち着いていった。

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