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第3話
気づかぬうちに、ずいぶん長湯をしたようだ。浴室の窓をふと見上げると、すっかり暗くなっている。
ジェイはふらつきながら湯から上がって、体を拭くと、部屋着を身に着けた。
生成り色のリネンのシャツに、草染めのゆったりとしたズボンを履く。
短めの裾を絞る紐を締め、くるりとふくらはぎに巻きつけて結び、柔らかい鹿革の室内履きに爪先を通す。
「ふう……」
さっぱりしてくつろいだ格好に着替えると、喉の渇きを覚えた。
裏庭はすっかり日が落ちて、屋根はあるものの壁のない渡り廊下は肌寒かった。
すん、と鼻を鳴らして、吹く風の香りを嗅いでみる。裏庭の花は藍色の闇の中にも白く咲き誇っているが、香りはほとんど感じられなかった。
「シウの匂い、なんだったんだろ……」
浴室で嗅いだときは不安になったのに、離れてしまうと、もう一度嗅いでみたくなる。
まさか、シウを嗅がせてもらうわけにはいかないので、香水や香油の類なら、種類を教えてもらおう。
そう決めて、食堂を覗き込んで、ジェイは思わず声を上げた。
「うわっ。あんたら、なんだよ揃って」
夕食後のお茶を楽しんでいるエウリケに、付き合って茶器を手にしたシウ。
酒類を置いた壁際のカウンターにいつものように二人組で座って、酒を酌み交わしている、ピューマのニーチェと、黒豹のセオドア。
それに加えて、普段は部屋から出ないか、遠方へ仕事に出ているかで滅多に顔を合わせない、ギルドマスターの金獅子サヴェクまで。
ギルドの全員が一室に揃っている。
猛獣たちの視線を一身に浴びて、ジェイは蛇に睨まれた蛙のように固まって、戸口で立ちすくんだ。
「……手を出すなよ」
かちん、と音を立てて茶碗を置き、シウが低くつぶやいた。
その言葉に、セオドアは苦笑して、装飾的な刺青の入った顔を背け、ニーチェは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
サヴェクは黙って、ゆっくりと鮮やかな金の目を閉じる。
視線の圧力から解放され、ジェイはようやく食堂に足を踏み入れた。
猫科の二人組が掛けているカウンターの後ろに回り込むと、飲料水を詰めた大瓶を取り出し、グラスに注いだ。
一口飲むと、乾いた体に、たっぷりの水が甘く感じる。
ごくごくと喉を鳴らして夢中で飲み、ふう、と大きく息をついた。
「……どうしたんだよ、ニーチェ」
視線を感じて振り向くと、若いピューマの青年が、じっとジェイに見入っていた。
「なっ……」
指摘されたニーチェは、はっとして目を背けた。
手にしたグラスの酒を勢いよく飲み干すと、机に肘をついてうつぶせる。
「ガキ相手に、勃つかよ」
「え?」
「なんでもねえよ!」
ニーチェは首を振り、もどかしげに金色の尻尾を振り回して、低い声で唸る。
ジェイはもう一杯水を汲むと、カウンター越しにニーチェに差し出して、おそるおそる声をかけた。
「ニーチェ、具合でも悪いのか?」
「うるっせえ、ガキは黙ってろ」
顔を上げるなり、ぐるるる……、と喉の奥で唸り声をあげて牙を剥いたニーチェに、ジェイは怯んで後ずさった。
常になく苛立っているニーチェの肩を掴んで、隣に掛けたセオドアが引き留めた。
「ニーチェ。駄目だ」
「……うるせえよ、わかってる……。おい、悪かったな」
負けん気が取り柄のニーチェが、こんなふうに折れるのは珍しい。
ジェイはためらいながら頷き、覇気のないピューマを気遣わしげに見やった。
「…………三階に立ち入ったら殺す」
サヴェクが低い声で宣言し、のそりと腰を上げる。
セオドアも頷き、ニーチェの肩を叩いた。
「確かに、ここで雁首つき合わせてたって仕方ない」
「……暑苦しいったらねえや」
ニーチェは、気遣うように肩に乗せられたセオドアの手を、鬱陶しげに払いのけて席を立った。
そのまま部屋を横切って廊下へ続く扉を開ける。
「出掛けるのですか?」
穏やかに尋ねたエウリケの声に振り返ったニーチェの顔は、なぜだか心なしか赤い。
ジェイは首をひねって、くつくつと笑うセオドアを見やった。
「聞いてやるな」
セオドアは、きらきら輝く碧色の目をいたずらっぽく細める。
「~~~……っ!! 外泊だ、外泊!」
「そうですか」
優雅に頷き、いってらっしゃい、と手を振ったエウリケの声が聞こえたかどうか。
ニーチェは壊れそうな荒々しさで扉を閉め、足音は玄関のほうへ遠ざかっていく。
「さて。俺はおとなしく寝て過ごそう」
セオドアも腰を上げると、ニーチェが置き捨てていったグラスを片付け、おやすみ、と軽やかに黒い尾を揺らして、寝室のある二階へ消えた。
「あなたも、早く自室に戻りなさい」
穏やかながら有無を言わせぬ口調のエウリケと、最前から黙ったままのシウに首をかしげながら、ジェイも食堂を出た。
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