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第1部 1

「こんな感じだから、レシートは基本出せない。ほとんどいないけど、領収書をお願いされた時は手書きになるから。ここにおいてあるからこんな感じで書いて……、で判子を忘れに! これでオッケー」 「わかりました」 「うん、よろしくね」  午前11:45。  小柄で少しふくよかな女性、舞子がハキハキと業務の内容を説明してくれる。業務が単純なのもあるが、舞子さんの説明が分かりやすいおかげで、特に不安もなく取り掛かれそうだ。  25歳になった佳人は、派遣のアルバイトをこなして生計を立てていた。今日からは新しい派遣先で、内容はオフィス内でのお弁当売り。  発情期のせいで、佳人もほかのΩの例に漏れず、正社員で働く事が難しい立場だった。三ヶ月に一回、Ωは必ず発情期が来る。その時は仕事を休まねばならない。正社員じゃないとしても、発情期の際は一週間は仕事が出来ず収入が安定しないため、佳人は今も実家暮らしから抜け出せないままだった。 「お昼は12時からだから、もう少しだね。12時からはめちゃくちゃ混むからしばらくは慌しいと思うけど、何か分からないことがあったら、すぐに聞いてね」 「はい」  頭の中で、この色のシールがついた弁当は500円。こっちの色は600円。と舞子に教えてもらったことを反復する。新しいアルバイトは何度もこなしてきたが、やはり初出勤は緊張する。 「履歴書で見たんだけど、佳人くん、Ωなんだって?」  突拍子もない質問に佳人がぎょっとすると、舞子さんが「ああ、ごめんね突然」と曖昧に笑った。 「他意はないのよ。私は番持ちのαだから安心してねって言いたくて」  舞子がαだと言う事にも驚いた。αの女性といえば、皆バリバリのキャリアウーマンなんだと勝手に思い込んでいたので、舞子みたいなタイプには初めて会った。 「ここの社員さん、割とαの人多いから抑制剤は必ず常備してね」 「もちろん、それは、はい」 「言われなくても分かってるよね! お節介でごめんね」 「いえそんな、ありがとうござます」 「私旦那がΩだからさ、色々苦労してるの見てるの。だからΩの子に会うとどうしても重ねちゃってね」  舞子がそう言った時、ちょうど12時を知らせる音楽が鳴ったため、その話はそこで打ち切りになった。「じゃ、よろしくね」と笑顔で舞子は持ち場に戻る。  佳人は無意識に首の後ろを触っていた。タートルネックで隠された場所にある噛み跡は、8年も前のものだ。もう痛むはずのない傷が疼くような気がして、佳人は苦い気持ちになった。  自分の番であるはずの東とはあの日以来、一度も会えていない。2年前、東の実家のパン屋は土地の買収でなくなってしまった。そのため、唯一東と繋がれる希望だった東の両親も、佳人に知らせることなく何処かへ越してしまい、東を探す手がかりは何もなくなってしまっていた。  佳人は今でも、後悔し続けている。  あの日、東が無実であるとはっきり主張できていたら、未来は違ったはずだ。それ以前に、佳人が発情さえしなければ、東は転校することもなかった。  自分が東と、東の家族の人生をめちゃくちゃにしてしまった。  自分が、Ωのせいで……。 (だめだ、考えるのやめろ)  吐き気が込み上がってくる気配がして、佳人は頭を振って考えを振り払った。  まずは仕事だ。集中しろ。  気がつくと、ホールの人通りが増えていた。  それから5分後には、押し寄せてきた社員たち相手に、目が回るような忙しさで対応することになるのだった。

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