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第1部 2
「完売ね。お疲れ様!」
「お疲れ様でした……」
ものの20分で、弁当は完売した。レジの対応に追われていたら、気づいたら弁当がなくなっていて、佳人はなにが起こっていたのか理解できずにいる。
ぽかんとする佳人を見て、舞子が笑う。
「分かる分かる! 私も最初は何が起こったか分からなくて、混乱しっぱなしだったよ。ゆっくり慣れてくれれば良いからね!」
「な、慣れますかね、これ」
「慣れる慣れる! ……あら、これ、忘れ物かしら」
弁当が並べられていた籠を持ち上げたところに、小さながま口財布が置かれていた。こちら側からだと死角になっていたので、舞子も佳人も気付かなかった。
「もう撤去しなきゃだし、受付に預けてくるわね。この辺整理しておいてくれる?」
「分かりました」
舞子は早足でエレベーターに乗り込んで行った。
その間に籠を重ね、売り場にしていたテーブルを畳む。
背後から、誰かが走って来る気配がしたのはその時だった。舞子が戻ってくるには早過ぎるし、財布を忘れた人が気づいて戻って来たのかもしれない、と佳人は振り向いた。
「あ、お弁当、もうなくなっちゃいました、よ…ね……」
佳人は思わず息を呑んだ。
振り向いた先にいたのは、東だった。
8年経って、髪型も体格も顔つきも違っている。着ているものも、学ランではなくパリッとしたスーツだ。しかし面影は東に間違いなかった。
東も相手が佳人だと気付いたらしい。音もなく、唇が「佳人」と動く。
2人がいるその場所だけ、時間が止まったみたいにどちらも動かなかった。固まったまま、お互いに目を見開いてお互いを見つめている。
「佳人くんお待たせー!」
何分、そうしていたか分からない。舞子の声で、やっと佳人は自我を取り戻した。
ただならぬ雰囲気を感じ取った舞子が「知り合い?」と尋ねてくる。その声に東がハッとし、何も言わないまま、踵を返す。
「すみません、舞子さん、ちょっと」
佳人は思わずその背中を追いかけていた。
「東!」
東はこちらを見ることもなく、逃げるように早足で歩いて行く。
「東! 待てよ!」
「……っ、触るなっ!」
ようやく掴んだ腕を激しく振り払われて、バランスを崩した佳人は2、3歩仰け反った。東の怒号にホールが静まり返る。東が我に返り、バツの悪そうな顔で「すみません」と小さく頭を下げた。
「……あず」
「おいおい、どうした東」
横にあった椅子から、コーヒーを持った男が降りてくる。
見たところ佳人や東よりは年上そうで、30歳前後だろう。東の上司かもしれない、と思った時、東がその人のことを「朝霞さん」と呼んだ。
「誰? 知り合い?」
「いえ……」
東の言葉が、ぐさりと胸に刺さる。
(いえってなんだ。番だろ、お前の)
「てかこの子Ωじゃん。お前、Ωの知り合いなんていたんだ?」
(なんだ、この男……)
直接的な表現があったわけじゃないのに、朝霞がΩを見下すような人間なのだと、言葉の節々から分かる。
この男といると気分が悪い。早く東だけ連れて立ち去ろうと、佳人は口を開いた。
「いえ、知らない人です」
東の言葉に、佳人は自分の声を発することなく飲み込む。
タチの悪い冗談を聞かされているような気分で、佳人は東を見た。
見上げた先の東の目には、嫌悪の感情が滲んでいた。まるで汚いものでも見ているような、心底軽蔑しているような、そんな目だった。嫌悪の中には怒りと苛立ちも混ざって、冷たく冷徹なナイフのように尖っている。
「冗談やめてくださいよ。俺にΩの──〝セックス狂い〟の知り合いがいるわけないでしょう?」
佳人は自分が何を言われたのか理解できなかった。
(セックス狂いって、なんだ? 誰のこと?)
……もしかして、俺のこと?
頭が真っ白になったまま、東を見つめる。
「そうだよなーお前みたいな生粋のαに、Ωの知り合いなんているわけないよな」と言う、朝霞の下品な笑い声が遠くに聞こえる。
東、と再び呼んだ声は、声にならなかった。東が佳人から目を逸らし、朝霞と一緒に立ち去ろうとする。
気付いた時には東の腕を引っ張り、思い切り東の顔を殴り飛ばしていた。
「きゃあ!」
「や、やめなさい! 君!」
また東に殴りかかろうとしたのを誰かに止められる。羽交い締めにされたのを振り解こうとして、今度は床に力尽くで押さえ付けられた。
「佳人くん⁉︎」
騒ぎを聞きつけた舞子が走ってくるのが見える。しかし佳人は今、それどころではなかった。
「ふざけんな東っ!」
押さえ付けられながら、佳人は思い切り東に怒鳴っていた。
頭が、体中の血液が沸騰して火を吹きそうだった。今まで出したこともないような大声に、喉が擦り切れそうだ。だがそんなことも気にならない。もし頭の血管が切れても、喉が潰れても構わない。
「知らねえじゃねえよ! ──テメェは俺の番だろうがッ!」
「番?」「番って、東くんの?」──そんな囁き声が聞こえてくる。それなのに、当の東は何も言わないまま座り込んでいる。驚いた表情を浮かべているだけで、何を考えているのか読めない。
「佳人くん、大丈夫よ。落ち着いて」
傍に膝を付いた舞子が佳人の興奮を宥めようとしてくる。
「大丈夫だから、まずは落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから……」
あなたが泣く必要なんて、なにもないのよ。
その言葉で、佳人は自分が泣いていることに初めて気がついた。
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