12 / 35
明日花1
「久しぶりに会えたのに上の空だね」
東竜太はその言葉で我に返った。
途端に、店内に流れる軽やかなジャズや、コーヒーの芳しい香り、人の話し声が戻ってくる。
目の前の席には婚約者が座り、つまらなそうにアイスコーヒーをストローでかき回していた。
「なんてね。上の空なのはずっとか」
はあ、とため息を吐きながら婚約者──明日花は足を組み直した。
それだけのことなのに、誰もが目を止めるような美しい動きだった。店内にいる男性の視線が、明日花に集まるのを感じる。
その熱量を感じることはできるというのに、東は、自分の心が少しも動かないことに虚しくなった。
1ヶ月前、東は赤松佳人との番関係を解消した。
離れていて、佳人がどこにいるのか分からない状態でも、東と佳人の間には2人を繋ぐ〝糸〟が存在した。
それは番同士にしか分からない、目には見えない特別な〝糸〟。
それが失われて、今度こそ本当の意味で佳人を失ってしまった。もうどこかで繋がっているような、あの不思議な感覚を覚えることはない。
東の中に残ったのは、底無しの喪失感と、行き場のなくなった佳人への恋慕だった。
何も考えたくなくて、狂ったように仕事して、家に帰ったら酒を飲んで寝て、また死ぬほど働いて……を繰り返す毎日だった。
そんな中、東をここに連れ出したのが明日花だった。
容姿端麗、才色兼備のαで、キャリアウーマンとしてバリバリ働く彼女には自分から婚約を申し出た。
その時に自分には番がいるが添い遂げるつもりはない、と言うと、明日花は「こいつ頭おかしいのか」という顔をした後、婚約を承諾した。
その時の明日花がなにを考えていたのかは分からない。それでも2人はうまくいっていた。会社中の公認カップルで、誰が見ても納得するα同士のカップル。
東も彼女のことは好きだったし、不満もなかった。しかしこの1ヶ月、東は明日花の存在をすっかり忘れていた。
「竜太がぼーっとしてるのは付き合った時からずっとだよね」
「ごめん……」
「いいよ。そんなことより、今日は大事な話があるの」
明日花は相変わらず退屈そうに、アイスコーヒーをかき回している。その態度は、これから大事な話をしようとする人のものとは思えない。
「赤ちゃんができたんだよね」
時間が止まったような気がした。
(こども? なんで。なんで、だって、俺と明日花は──)
「うん。ご想像通り、私と竜太の子じゃないよ」
私たち一回もしてないしね、と続ける。
「それに私のお腹にいるんじゃないの」
明日花は東を置いてけぼりにしたまま、淡々と話を続けた。
「私、今真剣に付き合ってて、絶対に幸せにしたい男がいるんだよね」
東はその時初めて、明日花に渡したはずの婚約指輪が、左手の薬指から消えていることに気づいた。
指輪が消えた左手で、明日花が東の目の前に何か置く。
手が退けられたテーブルの上で、ダイヤがキラリと光った。
「黙っててごめんね。でも貴方も私のこと愛してなかったんだから、お互い様でしょ?」
「明日花……」
「そろそろ私に相談するつもりになった?」
そこで明日花が何を言いたいのかがようやく分かった。
東の未練に明日花は気付いていたのだ。恐らく、婚約を申し込んだ日からずっと。
番の存在を忘れて逃げる場所として、明日花を扱っていることも気付いていながら、明日花は婚約者を演じてくれていた。
「勘違いしないで。私が竜太を好きだったことも、一度だってないから。竜太に振り向いてもらえないから別の子に変えたとか、そういうのじゃないから」
考えていたことをあっさりと否定され、東は瞬きをした。
「婚約を申し込まれた時から、今の彼とは付き合っていたの」
驚く東に「黙っててごめんね?」と軽く謝る。
「だって番と添い遂げるつもりはないとか言いながら、番関係は解消しないんだもん。番はいて解消する気もないけど結婚してくれなんて言ってくる男、そりゃ気になるでしょ」
「お前、そんないい性格だったか?」
「ま、これは冗談として」
明日花の目が真っ直ぐ見つめてくる。これから大事なことを言うと言わんばかりの目力に、体が緊張する。
「婚約を申し込んできた竜太があまりにも苦しそうだったから、気になったの。見るからに未練タラタラだったから、結婚まで保たないのも分かってたし、どこかで根を上げて相談してくるでしょって」
なにもかもお見通しだったのだと言われ、東は恥ずかしくなった。自分の情けなさにだ。
「そしたらこの男、いつまで経っても相談してこないし! この間、会社で番に再会したことも知ってんのよ? 今度こそ何か言ってくるだろと思ってたら、なんの連絡もないまま1ヶ月音信不通ときた。もうあったまくる!」
明日花は苛立ちのままにアイスコーヒーを飲む。ストローに吸い上げられて、見る見る中身がなくなっていく。
ともだちにシェアしよう!