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『蓮』
「東くん」
残業で残っていた東に声を掛けてきたのは、上司の大屋敷だった。
すらりと高い長身に、切れ長の目が特徴の端正な顔立ち。短く切りそろえられた黒髪は清潔で、いかにもαのエリートだという雰囲気がある。実際、仕事が出来て34歳にして課長職に就き、人望も厚い。そしてその薬指には銀色のリングがはめられていた。
「課長、お疲れ様です」
「東くんこそ。最近よく残業してるね」
「ええ、まあ」
「その仕事は、今日残ってやらなきゃいけないものじゃないよね」
大屋敷の言う通り、それは何日も先の仕事だった。今日の仕事はとっくの昔に終わっている。
「最近、異常に熱心に仕事してるようだけど、なにか仕事をすることで忘れたいことでもあるのかな」
さすがに鋭い。上に立てる者は、よく人を見ている。
「なにもありません」、そう言おうとして、東は思い留まった。
脳裏に昼間、明日花に言われた言葉が蘇る。
……私たちはαの力を使って大事な人をαから守ってる──
「課長は、自分のせいで……番の方が殺されてしまうかもしれないと、思ったことはありますか……?」
気付いたらそう口にしていた。言ってから、どうしてこんなことを、と後悔した。
突拍子もない部下の妄言で困らせてはいけない。
さっきの言葉を取り消そうと顔を上げた東の目に飛び込んできたのは、悲しげに瞳を揺らした大屋敷の顔だった。
「……あるよ」
ぽつり、とそう言った。
「実の母親に、番を殺されそうになったことがある」
心臓が嫌な音を立てて軋むのが分かった。
「お母様に……?」と問い返した声は掠れていた。
「僕の家系は代々αでね、典型的なα至上主義だった。僕の周りにはαしかいなくて、他の性の人と関わると酷く叱れてた。
僕は両親の会社を継ぐために育てられて、親が決めたαの許婚もいて、当然のように僕はそれに従わせられるんだと思ってた」
「でも彼に出会って、全部変わった」と大屋敷は続けた。
「あの時は親の言うことを聞くロボットから、人間に生まれ変わったような感覚だった。すでに継いでた会社も許婚も家も全部捨てて、両親のいない遠い土地で彼と結婚した。
間も無くして、彼のお腹に赤ちゃんができて、僕は肉親もお金も地位も全部失ったけど、本当に幸せだった」
ネバついた汗がじわじわと浮かんでくる。
そうか。幸せだったのか。大屋敷さんには愛する番も、お子さんもいて。あれ、でも大屋敷さんには……。
「ある日、母親が家に乗り込んできた。その時、僕は留守にしていて、家には彼しかいなかった。母親は彼のお腹を、包丁で刺した」
話し続ける大屋敷さんの手が震えている。
「母親は現行犯逮捕された。彼は意識不明の重体で病院に運ばれたけど、すぐに手術を受けたおかげで奇跡的に一命を取り留めた」
大屋敷さんが大きく息を吸う。「でもその時に」と続いた声は、小さな声なのに泣き叫んでいるようだった。
「──でもその時に、子宮と卵巣を全摘した。……その子宮の中には、4ヶ月になる僕たちの宝物がいた」
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