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泥を超えて咲く花

(めぐる)」  大屋敷が会社を出ると、ベンチに座っていた人影が立ち上がった。 「蓮」  暗くてよく見えなかったが、それは自分の番で伴侶の蓮太郎だった。  165センチの小柄で、肉付きの悪い体はどこも不安になるほど細い。しかし表情は健康そのもので、大屋敷を見つけて嬉しいのか、丸い頬が桃色に染まり、暗闇の中で大きな茶色の瞳がキラキラと輝く。 「近くまで来たから待ってたんだ。一緒に帰りたくて」 「連絡してくれればよかったのに」 「仕事なら邪魔したくなくて。あと15分待っても来なかったら帰ろうと思ってた」  そう言ってはいるが、蓮太郎の小さい手を握ると、氷のように冷え切っていた。  「風邪引いたらどうするんだ」と心配する気持ちと、こんなになるまで自分を待っていてくれた健気さを愛おしく思う気落ちが同時にこみ上げる。結局どちらも言葉にならなくて、大屋敷はその手を自分のコートのポケットにつっこんだ。 「あったかい」  ポケットの中でどちらともなく指を絡める。  蓮太郎の冷たい体温と、大屋敷の体温が溶け合って、じんわりと優しい熱になる。 「さ、巡、帰ろ」  そう言って蓮太郎は歩き出そうとする。  しかし動かない大屋敷のせいで一歩も歩けないまま、不思議そうに振り返った。 「どうしたの?」 「……さっき、後輩から、自分のせいで番を殺されそうになったことはありますかって、聞かれた」  こんな話、するべきじゃないかもしれない、と思いながら口にした。  蓮太郎が思い出して、また傷つくかもしれない。そう思ったら、言ったことを後悔した。 「それで? なんて言ったの?」  しかし蓮太郎は、なんてこともなさそうな様子で続きを促してくる。 「僕たちのこと、全部話した。清子さんのことも、全部」 「うん、それで?」 「後輩の中で何か吹っ切れたみたいで、すっきりした顔してた」 「そっか。 よかったね! 俺たちが役に立ったんだ! それ、嬉しいな。……どうしたの、そんな顔して」  分からない。自分は今、どんな顔をしている? 「ごめん……あの時の話をしたら、蓮が傷付かないか不安で」  東に話している時も、本当は辛かった。  自分の犯した罪を忘れたことは一度もない。けれどそれを改めて言葉にすることは、本当に苦しかった。  辛かったが、これが東のために……誰かのためになればいいと思った。  自分の犯した罪を、2度も繰り返されることのないように。  もう誰も、大切な人を悲しませることのないように。 「偉いね、巡」  優しい声色に、大屋敷は顔を上げた。  蓮太郎が穏やかに微笑んでいる。 「俺たちが誰かの幸せに繋がってるって不思議だね。でも、それって嬉しいね」  そうだ。蓮太郎はこういう人間だ。  人の幸福を、心から願い、祝福できる人間。 「きっと巡のしたことは、いつか俺たちに返ってくるよ。お義母さん──清子さんには、届かなかったけど」  蓮太郎は天使なんだと、本気で思う時がある。  天から遣わされて、永遠と人間の幸福を願い続ける天使。  ところが天使は気付かない。人間を愛することに必死で、自分を遣わした神が、自分を愛していないことに気付かない。  残酷な神は、地上に送った天使のことなど、とっくに忘れていることに天使は気付かない。 「幸せは必ず、俺たちに返ってくるよ」  愛しい愛しい愛しい愛しい。  神に愛されないこの天使が愛しい。 「そうだね」  愛しき天使は、天使を裏切った神を憎んでいる人間がいることにも気付かない。 「帰ろうか、家に」  だが人間は信じている。  神じゃなくても、天使を幸せにすることができると、信じている。

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