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第2部 2

 東が電車を降りると、強い秋風が吹き付けてきた。  空は秋晴れなものの、気温は低くく、マフラーをしてきて正解だったと思う。 改札を出ると、目の前によく知るチェーン店の喫茶があり、右と左に道が別れていた。  左側の道の先──駅の西口は直接大きな商店街に繋がっており、花屋やケーキ屋、八百屋など、下町の風景を残した街並が広がっていた。  東は商店街の一角にある、とあるパン屋を探して歩き出した。  数年前から癌と戦っていた母親が亡くなったと、病院から知らせが来たのは昨夜のことだった。  今日はその訃報を、9年前に離婚した父に伝えにやってきたのだ。  離婚は、母親の鬱病が原因で、度々ヒステリックを起こしていた母が、これ以上迷惑を掛けたくないと自分から離婚を申し出た。  経緯が経緯なため、離婚後もたまに連絡は取り合っていたようだが、東自身は長年会っていない。忙しかったのもあったが、父親が再婚したことが大きな理由だ。  東がこうして、電話やハガキで済ますこともできる訃報を直接伝えにきたのは、父親と再会するためだった。  父はこの町で、パン屋の仕事を続けているらしい。  地図アプリを見ながら商店街を歩き続けること7分。目的地へ辿り着く。  『bakery AZUMA』──名前は昔のまま。看板のデザインも見慣れたもので、東は懐かしさで胸が疼くのが分かった。  ドアの脇にある窓から覗いてみる、今は客はいないようだ。カウンターに店員らしき男性の後ろ姿が見える。手にペンとバインダーを持った店員は、忙しそうに店の裏へ引っ込んでいった。  父親ではないようだが、きっと工房の中にいるだろう。  東がドアを引くと、鈴がちりんちりんと音を立てた。  店内は香ばしい焼き立てのパンの香りに包まれており、レパートリーは食パンやクロワッサンなどの定番から、少し変わったパンまで様々だ。中には見覚えのあるものもある。  以前の店よりも少し広くなっていて、中には簡易的なカフェが併設されていた。店内の所々に、小人や、ウサギや羊などの動物のガラスフィギュアが飾られていて、可愛らしい印象を受ける。  父はシンプルを好む淡白な人だったので、再婚相手の趣味かもしれない。  東がもう一歩店内に入ると、カウンターの奥から足音が聞こえた。鈴の音を聞きつけた店員が戻ってきたのだろう。  わざわざ呼ぶ手間が省けて良かった。 「いらっしゃいませー」  若い、耳触りの滑らかな声。  その声に呼吸が止まった。 「どうぞごゆっくりご覧──」  その声の人物と目が合う。  その手からペンとバインダーが滑り落ちていく様子が、スローモーションのようにゆっくり見えた。  ガチャン、と遠くで音が鳴る。 「佳人……」  震える唇でそう呼んだ声は、やはり震えていた。  東の頭の中からは、もう母や父のことはすっかり抜け落ちていた。なぜ父の店に佳人がいるのかも気にならない。  佳人だ。  癖のある黒髪は切り揃えられ、黒蜜のような艶やかな色の瞳は自分が知っているものと変わらない。しかし元々線の細かった体は、1年前よりも痩せて、頬も少し痩けている。  その正気の薄さが少しだけその美貌を枯らしているが、それでも尚、佳人は綺麗なままだ。  ずっと会いたいと思っていた好きな人を前に、心が歓喜する。 (なんて声をかける? 久しぶり? 元気か? いや、それとも)  頭の中を大量の血が駆け巡っているような気がする。  興奮を必死で押さえ付けても、考えがうまくまとまらない。 「佳人、」   思考よりも早く声をかけたい、という気持ちが先走り、また名前を呼んでしまう。  その声にハッと瞬いた佳人が、ふらりとよろめき、再びカウンターの奥へ引っ込んで行った。  まるで東から逃げるようにして──……  後頭部を鈍器で殴られたような感覚に襲われ、そのショックと共に頭が急激に冷えていく。  佳人は何も言わなかった。  しかし東を拒否しているということだけは、東にも分かった。  自分が喜んでしまっていた分、その事実は重く東にのしかかる。

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