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第2部 4

 出てくるのは父だろうと思い込んでいた東の予想は外れた。  りーん、という音に呼ばれて出てきたのは、佳人だった。  東を見て、佳人がまた動きを止める。しかしカウンターの上を見て、佳人はゆっくりと東に向かい合った。 「……あ、ありがとう、ございます」  明かに動揺している手つきで、佳人がレジを打ち始める。 (帰ったんじゃないのかっていう顔だったな……)  分かっているのに、佳人を前に心が躍る。  舞い上がるな、舞い上がるな、と唱えても駄目だった。  理性ではなんとかできないところが、勝手に喜ぶ。  佳人が拒否しているなら、これ以上関わるべきではない。もう2度と、自分が介入して佳人の人生を無茶苦茶にしないと決めただろう。  1年間、そう思ってきた。そう心に決めてきた。  それが本物の佳人を前に、崩れかけている。  関わるべきではない。  関わるべきではない。  関わるべきではない  関わるべきではない。  関わるべきではない。  関わるべきではない。  関わるべきではない。  それが佳人の幸せなら、自分は関わるべきではない。 「──東?」  記憶の中と同じ声が、自分の名前を呼ぶ。  ハッと我に返ると、佳人が東の顔を覗き込んでいた。  黒蜜のような目が、光を浴びて琥珀色に透ける。 「ごめん、佳人……」  気がついたら、口にしていた。 「〝あの日〟から、ずっと逃げ続けて……ごめん」  ずっと、謝りたかった。  自分が弱さと向き合えずに、佳人1人を置いていったこと。  向き合おうとしてくれていた佳人を突き放して、傷つけてしまったこと。 「許してくれなんて、言わない。俺を、許さないでくれ」  佳人を傷つけてしまったαの自分を許さないでくれ。 「俺の一生をかけて、償わせてくれないか……」  佳人を傷つけることしかできなかったこの力を、今度は佳人が幸せになるために使わせて欲しいと、願うようになった。  それが自分勝手な自己満足でしかないとしても、そうすることでしか、佳人に負わせた負債を返すことができない。 「俺を利用してくれ、佳人」  佳人に許されないまま、佳人の為に生きること。自分にとって一番残酷なことを、佳人への贖罪に代えさせて欲しい。 「なに……言ってんだよ」  佳人の瞳が揺れる。 「お前、自分勝手すぎるだろっ」  佳人は右手を額に当てて、よろめいた。 「あの時は俺がどれだけ言っても受け入れずに、番を解消したくせにっ。今度はそんなこと言うのかよ」  「あの日から俺がどんな思いで……」と佳人が呟く。 「俺が一番、お前の力が欲しかった時に、お前は側にいなかったくせにっ」 「……ごめん」 「お前から、俺なんて要らないって、言ったくせにっ」 「それは違う!」  聞き捨てならない言葉に、東はカウンターに手を付いて佳人に詰め寄った。驚いた佳人が身を引く。 「佳人を要らないなんて思ったことない!」 「お前の気持ちなんて関係ねぇよ! お前にそんなつもりがあろうがなかろうが、お前は友達としての俺も、番としての俺も必要なかったから縁を切ったんだろっ。違うのかよ⁉︎」 「違う! 俺はお前が大切だったから!」  自分は佳人と他人同士になったあの時だって、本当は佳人が欲しかった。佳人が好きだった。でも好きな人を、αの脅威から守り切る自信がなかった。 だから手放すことが、自分に出来る精一杯だと、あの時は思った。 「お前をこのまま俺に縛り付けていれば、また傷つけると思ったんだ。でも、それは間違ってたと、今なら分かる。すまなかった……」  必死な思いで頭を下げた。 「……もう遅ぇよ」  静かな、感情を全部削ぎ落としたような声。その声が、東の心をヒヤリと撫で付けていったような気がした。  顔を上げると、何もかも諦めたような表情を浮かべた佳人が、不自然に口角を上げて笑っていた。 「お前がしたことで……俺はもうたくさん、傷ついたんだよ」  その言葉に、頭を殴られたようなショックが全身を駆け抜けていった。足元にぽっかりと穴が空き、落ちていくような。  佳人を傷つけたことは、痛いほど自覚しているつもりだった。それでも改めて、佳人自身から突きつけられることは、想像の何倍も苦しい。 (佳人はお前を欲してない)  心の隅で、声がする。 (関わるべきかそうでないか、それを選ぶ権利があるのはお前じゃない)  自分を許したことなどない。許そうとしたことも。自分のしたことを責め続けて、その度に懺悔してきたつもりだった。  だがそれも甘かったのだと思い知る。足りなかった。 (〝関わるべきじゃない〟とか、今思えば、なんでそれを選ぶ権利が自分にあるなんて思い込んでたんだ)  自分の厚かましさに腹が立った。しかしその怒りは、すぐに憂いに変わる。 (こんな気持ちになる資格なんて俺にはないのに、なんでこんなに苦しくなるんだ)  すぐ目の前にいるはずの佳人が、果てしなく遠くて、切ない。 「……お会計は745円です」  そこまでの会話がなかったように、佳人の声は淡々としていた。もう話すことはないから、早く帰ってくれと言われているようだった。  ぼんやりと思考に白い靄がかかったまま、支払いを終える。 「商品です。ありがとうございました」  パンの入った袋を受け取ると、佳人はすぐに東に背を向けて作業をし始める。背中が完全に東を拒絶していた。  東は出口へと向かった。  これで本当に最後だ。最後にしなければいけない。それが佳人のために……佳人の幸せになるなら。  なぜだろう。ドアノブに手をかけたまま、体が動かない。  どうした。あとはドアを引いて、一歩出るだけじゃないか。  やることはたくさんある。母の葬式の準備をしなければ。そのために急遽休みをもらったから、喪が明けて会社に戻れば仕事がたくさんある。それも済めば、いつも通りの生活に戻る。 (いつも通り?)  違う。いつも通りには戻れない。  この店を出た後の自分の人生に、佳人はもういない。そう思うと、途方もない喪失感に襲われた。目の前のドアを引けば、この虚しさは永遠になる。その未来を想像して、東は恐ろしくなった。 「……また店に来ても、いいだろうか」  それが自分の口から出た言葉だと気付くのに、数秒かかった。喉が引き攣り、声は枯れていた。  自分の背中の向こうで、佳人がどんな顔をしているのか、想像できない。怖くて振り向くこともできない。 「……それは俺が決めれることじゃないから」  佳人からの答えに、ふわっと心が軽くなるのが分かった。しかしそれは一瞬のことで、すぐに自己嫌悪と羞恥心に襲われる。あまりの情けなさに、東は逃げるように店を出た。さっきまで引けなかったドアノブを、佳人にああ言われた瞬間、引けるようになった自分にも心底嫌気が差した。  無我夢中で歩いて、突然歩けなくなって、立ち止まる。 「──クソっ」  恥ずかしくて、情けなくて、自分が嫌で嫌で仕方ないのに、どこかで佳人と繋がっていれることを喜んでいる。  なにもかも嫌だ。自分の何もかもが。  淀んだ視界を車が通り抜けてゆく。今ここに飛び込んだら死ねるだろうかと、東は何十分もその場に立ち尽くしていた。

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