20 / 35
第2部 4
出てくるのは父だろうと思い込んでいた東の予想は外れた。
りーん、という音に呼ばれて出てきたのは、佳人だった。
東を見て、佳人がまた動きを止める。しかしカウンターの上を見て、佳人はゆっくりと東に向かい合った。
「……あ、ありがとう、ございます」
明かに動揺している手つきで、佳人がレジを打ち始める。
(帰ったんじゃないのかっていう顔だったな……)
分かっているのに、佳人を前に心が躍る。
舞い上がるな、舞い上がるな、と唱えても駄目だった。
理性ではなんとかできないところが、勝手に喜ぶ。
佳人が拒否しているなら、これ以上関わるべきではない。もう2度と、自分が介入して佳人の人生を無茶苦茶にしないと決めただろう。
1年間、そう思ってきた。そう心に決めてきた。
それが本物の佳人を前に、崩れかけている。
関わるべきではない。
関わるべきではない。
関わるべきではない
関わるべきではない。
関わるべきではない。
関わるべきではない。
関わるべきではない。
それが佳人の幸せなら、自分は関わるべきではない。
「──東?」
記憶の中と同じ声が、自分の名前を呼ぶ。
ハッと我に返ると、佳人が東の顔を覗き込んでいた。
黒蜜のような目が、光を浴びて琥珀色に透ける。
「ごめん、佳人……」
気がついたら、口にしていた。
「〝あの日〟から、ずっと逃げ続けて……ごめん」
ずっと、謝りたかった。
自分が弱さと向き合えずに、佳人1人を置いていったこと。
向き合おうとしてくれていた佳人を突き放して、傷つけてしまったこと。
「許してくれなんて、言わない。俺を、許さないでくれ」
佳人を傷つけてしまったαの自分を許さないでくれ。
「俺の一生をかけて、償わせてくれないか……」
佳人を傷つけることしかできなかったこの力を、今度は佳人が幸せになるために使わせて欲しいと、願うようになった。
それが自分勝手な自己満足でしかないとしても、そうすることでしか、佳人に負わせた負債を返すことができない。
「俺を利用してくれ、佳人」
佳人に許されないまま、佳人の為に生きること。自分にとって一番残酷なことを、佳人への贖罪に代えさせて欲しい。
「なに……言ってんだよ」
佳人の瞳が揺れる。
「お前、自分勝手すぎるだろっ」
佳人は右手を額に当てて、よろめいた。
「あの時は俺がどれだけ言っても受け入れずに、番を解消したくせにっ。今度はそんなこと言うのかよ」
「あの日から俺がどんな思いで……」と佳人が呟く。
「俺が一番、お前の力が欲しかった時に、お前は側にいなかったくせにっ」
「……ごめん」
「お前から、俺なんて要らないって、言ったくせにっ」
「それは違う!」
聞き捨てならない言葉に、東はカウンターに手を付いて佳人に詰め寄った。驚いた佳人が身を引く。
「佳人を要らないなんて思ったことない!」
「お前の気持ちなんて関係ねぇよ! お前にそんなつもりがあろうがなかろうが、お前は友達としての俺も、番としての俺も必要なかったから縁を切ったんだろっ。違うのかよ⁉︎」
「違う! 俺はお前が大切だったから!」
自分は佳人と他人同士になったあの時だって、本当は佳人が欲しかった。佳人が好きだった。でも好きな人を、αの脅威から守り切る自信がなかった。 だから手放すことが、自分に出来る精一杯だと、あの時は思った。
「お前をこのまま俺に縛り付けていれば、また傷つけると思ったんだ。でも、それは間違ってたと、今なら分かる。すまなかった……」
必死な思いで頭を下げた。
「……もう遅ぇよ」
静かな、感情を全部削ぎ落としたような声。その声が、東の心をヒヤリと撫で付けていったような気がした。
顔を上げると、何もかも諦めたような表情を浮かべた佳人が、不自然に口角を上げて笑っていた。
「お前がしたことで……俺はもうたくさん、傷ついたんだよ」
その言葉に、頭を殴られたようなショックが全身を駆け抜けていった。足元にぽっかりと穴が空き、落ちていくような。
佳人を傷つけたことは、痛いほど自覚しているつもりだった。それでも改めて、佳人自身から突きつけられることは、想像の何倍も苦しい。
(佳人はお前を欲してない)
心の隅で、声がする。
(関わるべきかそうでないか、それを選ぶ権利があるのはお前じゃない)
自分を許したことなどない。許そうとしたことも。自分のしたことを責め続けて、その度に懺悔してきたつもりだった。
だがそれも甘かったのだと思い知る。足りなかった。
(〝関わるべきじゃない〟とか、今思えば、なんでそれを選ぶ権利が自分にあるなんて思い込んでたんだ)
自分の厚かましさに腹が立った。しかしその怒りは、すぐに憂いに変わる。
(こんな気持ちになる資格なんて俺にはないのに、なんでこんなに苦しくなるんだ)
すぐ目の前にいるはずの佳人が、果てしなく遠くて、切ない。
「……お会計は745円です」
そこまでの会話がなかったように、佳人の声は淡々としていた。もう話すことはないから、早く帰ってくれと言われているようだった。
ぼんやりと思考に白い靄がかかったまま、支払いを終える。
「商品です。ありがとうございました」
パンの入った袋を受け取ると、佳人はすぐに東に背を向けて作業をし始める。背中が完全に東を拒絶していた。
東は出口へと向かった。
これで本当に最後だ。最後にしなければいけない。それが佳人のために……佳人の幸せになるなら。
なぜだろう。ドアノブに手をかけたまま、体が動かない。
どうした。あとはドアを引いて、一歩出るだけじゃないか。
やることはたくさんある。母の葬式の準備をしなければ。そのために急遽休みをもらったから、喪が明けて会社に戻れば仕事がたくさんある。それも済めば、いつも通りの生活に戻る。
(いつも通り?)
違う。いつも通りには戻れない。
この店を出た後の自分の人生に、佳人はもういない。そう思うと、途方もない喪失感に襲われた。目の前のドアを引けば、この虚しさは永遠になる。その未来を想像して、東は恐ろしくなった。
「……また店に来ても、いいだろうか」
それが自分の口から出た言葉だと気付くのに、数秒かかった。喉が引き攣り、声は枯れていた。
自分の背中の向こうで、佳人がどんな顔をしているのか、想像できない。怖くて振り向くこともできない。
「……それは俺が決めれることじゃないから」
佳人からの答えに、ふわっと心が軽くなるのが分かった。しかしそれは一瞬のことで、すぐに自己嫌悪と羞恥心に襲われる。あまりの情けなさに、東は逃げるように店を出た。さっきまで引けなかったドアノブを、佳人にああ言われた瞬間、引けるようになった自分にも心底嫌気が差した。
無我夢中で歩いて、突然歩けなくなって、立ち止まる。
「──クソっ」
恥ずかしくて、情けなくて、自分が嫌で嫌で仕方ないのに、どこかで佳人と繋がっていれることを喜んでいる。
なにもかも嫌だ。自分の何もかもが。
淀んだ視界を車が通り抜けてゆく。今ここに飛び込んだら死ねるだろうかと、東は何十分もその場に立ち尽くしていた。
ともだちにシェアしよう!