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第2部 5
数日後、母の見送りは滞りなく終わった。
葬式は母の生前の願いにより、東と父だけの小さな式になり、火葬を終えた母の遺骨は生家の代々の墓へ納められた。
残る諸々の手続きは父にも手伝ってもらい、あとは東1人でも終わらせられるというところまで落ち着いたところで、父も明日から仕事に戻ることとなった。
午後6時。リビングで書類を書いている所に、荷物を纏めた父が戻ってきた。
「竜太」
「なに?」
「一杯やらないか」
そう言う父の手には銀色の缶が握られている。東もそろそろ息抜きをしたいと思っていたので、快諾した。
百均で買ったグラスにビールを注ぎ、父と2人、小さな座卓の上で乾杯する。
ぐいっとグラスを仰ぐ。冷えた炭酸が喉を通り抜けていき、芳しい苦味が口内に広がった。母が亡くなってからは酒を飲む暇もないくらい忙しく、久しぶりのアルコールに体の力が抜けていく。
うまいな、と呟きながら父を見ると、父が東のことをじっと見ていた。なぜか嬉しそうに笑っている。
「なに?」
「いや。お前と酒を飲むのは、これが初めてだろう。だから嬉しくなってしまって」
「親心だよ」と言いながら、今度は父がグラスを傾けた。
そうか、自分が家を出たのは高校生の頃だったな、と父に言われて初めて思い出した。東は全寮制の高校に転校したときに家を親元を離れたっきり。しかも父と最後に会ったのはもう9年も前なのだ。
「俺が店に行った時、よく俺だって分かったね」
「母さんと別れたとしても、自分の子供が分からないわけないじゃないか」
何を馬鹿なことを、と言うように父が笑う。
「……本当に、お前には迷惑をかけたな」
そう言って父は、壁際に視線を向けた。そこには纏めた荷物と、骨壺が置いてある。
「それは俺の台詞だよ、父さん」
これは情けの言葉でもなんでもない、本当の気持ちだった。
両親が離婚したのは母の鬱が原因で。そしてその鬱の原因には、〝あの日〟の事件があった。
東は、全責任を押し付けられそうになった佳人を助けるために「自分から佳人を襲った」と必死に訴えた。そしてその訴えは聞き届けられ、あの事件はαの東がΩの佳人を襲い、佳人は一方的に番関係を持たされた被害者だという構図が出来上がった。
そこまでは計画通り。しかし東は佳人を助けることに必死で、自分が〝レイプ犯〟になった場合に、家族が受ける制裁まで頭が回っていなかった。
東が〝レイプ犯〟になった結果、『あのパン屋の息子が、Ωの同級生をレイプしたらしい』という噂が瞬く間に広がり、店には客が来なくなり、母は近所のコミュニティから疎外されていくことになる。
母に対して陰湿ないじめが始まり、心優しく、他人を嫌いになれない性格の母は気を病み、鬱病になった。
「俺が離婚させたようなものだ。……母さんも、実質、俺が」
「それ以上は父さんが許さない」
ぴしゃり、と怒気を孕んだ声で遮られる。
父は怒ったような、でもどこか悲しそうな顔で東を見つめていた。
「俺の大事な息子を侮辱することは許さない。それが息子本人だとしてもだ」
「父さん……」
「父さんも母さんも、1度だってお前を疑ったことなんてない。〝あの日〟のあれは事故だったと、そうお前が父さんたちだけに話してくれたことを、父さんたちは信じているよ」
家を出て行く日、両親だけには本当のことを話した。自分は佳人をレイプししていない、佳人も悪くない、室井先生も悪くない、あれは事故だったんだと、そう告白した。
母も父も、東を疑わなかった。
「お前は身を挺して、自分の番を守った。自分が悪者になってまで、佳人くんを守ったお前を、父さんたちは誇らしいと思っているよ。お前は父さんたちの、自慢の息子だ」
初めて知った父の気持ちに、急激に目の奥が熱くなる。それを誤魔化すように、グラスを仰いだ。大量の炭酸に鼻の奥がつんとなる。少し痛むが、これでどっちのせいで痛むのか分からなくなった。
「……ありがとう。それで、再婚相手とはどうなの」
無理矢理話題を変えると、今度は父が言いにくそうに頬をぽりぽりと掻いた。
「お前、変わってるなあ。普通実の父親の再婚相手の話なんて聞きたがるか?」
「俺は別に嫌じゃないよ。父さんが幸せなら嬉しいし。母さんもそれを願ってた」
自分が鬱病になってヒステリックを起こすたびに、申し訳なさそうに母は泣いた。優しい母は、自分のせいで自分の大切な人が傷つくことが嫌で、父と別れることを決めた。
(もしかすると、俺と母さんは似てたのかもな)
大事な人ほど遠ざけようとしてしまう自分のこの癖は、母親譲りだったのかもしれない。
「毎日楽しいよ。大事な人との思い出が詰まったパンを、また別の大事な人と大切にできる。いい仕事だよ」
「それ再婚相手の人は嫌がらないの?」
「それが嫌じゃないみたいでなあ。あれも変わってるんだよ。初めて暁子の話をした時はボロボロ泣いて、しまいには一緒に見舞いにも行った」
「はっ?」
それは初耳なのだが。
「最終的には俺よりも仲良くなってたんじゃないか?」
「俺、そんな話聞いたことないけど」
「じゃあ秘密にしてたんじゃないか?」
はっはっはっと父が笑う。いや笑い事じゃなくないか? それを知っていたら、再婚相手に遠慮して父に会いに行かなかった自分の配慮はいらなかったんじゃないか?
「竜太にもずっと会いたがってたから、今度店に会いに来るといい」
「どうせ佳人くんにまた会いに来るんだろう?」と何気なく言う父に、東は度肝を抜かれた。危うく持っていたグラスを落とす所だった。
「この間、派手に喧嘩してたからなあ」
「聞こえてたのかよ」
「あんだけ大声で言い合ってたらな」
なんとなく気恥ずかしくて、東は目を伏せた。
「……会いに行って、いいんだろうか」
そう佳人に聞いた時、「それは俺が決めれることじゃないから」と佳人は言った。けれどそれは、佳人の気持ちではなく、あくまで店員としての言葉だ。
本当の佳人は、自分になんてもう会いたくないんじゃないか。自分の好き勝手で番を解消した相手になんて、もし自分なら会いたくないと思う。
「どうだろうな。佳人くんの気持ちは、父さんには分からない」
そう言って、父は最後の一口を飲み干す。
佳人が何か父に話しているのではないかという淡い期待は、空振りで終わった。自分でも驚くくらい、残念がっている自分がいた。
父はグラスを手に立ち上がり、流し台で濯ぐと、荷物を背負う。
「ありがとう、楽しかった。また呑もう」
「駅まで送るよ」
「いや、道は分かるから」
ならば玄関まで、と東も立ち上がる。
父は靴べらを使い、履き古した黒いスニーカーに足をねじ込んだ。ふと、その隣に並ぶ自分の靴が目に入る。父の靴よりも一回りは大きい自分の靴に、なんとも言えない感動のようなものがこみ上げてくる。
だが東はもう知っている。体の大きさなど、その人の心の強さになんの関係もないことを。事実、先ほど、自分よりも体が小さいΩの父の言葉に、東の心は救われた。
「じゃあ、また店にも来てくれ。さっきも言ったが、妻も会いたがってる」
「分かった。気をつけて」
「ああ。それと、はい」
父がカバンの中から何を取り出し、東に差し出した。
封筒だ。なんの変哲もなく、宛名や差出人も書いていない。
不思議に思って父を見る。
「読めば分かる」
それだけ言って、父は帰って行った。これからはいつでも会えるのだと、見送りもほどほどにドアを閉め、リビングに戻る。
先ほど父から受け取った封筒の口を手で切り、中を見る。そこには1枚だけ便箋が入っていた。
『月 休み
火 8:00−17:00(13−14:00 休憩)
水 8:00−17:00(13−14:00 休憩)
木 店休み
金 8:00−17:00(13−14:00 休憩)
土 8:00−17:00(13−14:00 休憩)
日 8:00−17:00(13−14:00 休憩)』
それだけの内容がボールペンで書かれていた。他には何も書いていない。
『読めば分かる』
先ほどの父の言葉を思い出して、急に合点がいった東はスマホを取り出して、すぐに曜日を確認した。
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