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第2部 6
忌引きが明けてからはしばらく、目が回るほど忙しかった。
突如忌引き休暇に入った東の仕事は、ある程度は大屋敷がうまく割り振っていた。しかしそれでも仕事は山積みになっていて、忌引き明け初日は読んでも読んでも未読メールが減らなかった。
しかし怒涛のように仕事と向かい続けた1週間も昨日で終わり。土曜の今日は電車を乗り継いで、東は再び、父……そして佳人が住む街へ来ていた。
今日が土曜のためか、先日来た時よりも商店街は賑わっていた。買い物をする主婦らしき人もいれば、洒落たカフェでデートをしているカップル、本屋に入って行く学生など、様々な人たちで活気付いている。特に今がお昼の時間帯のため、飲食店はどこも満席のようだ。
東は緊張を誤魔化すために、商店街の風景を眺めながらゆっくり歩いた。早く父の店に行きたいような、行きたくないような、自分の気持ちが分からない。
パン屋が近づくたびに足が重くなった。特に買う気もないのに花屋に立ち寄ったり、コンビニに入ったりした。前回は7分だった道を、16分もかけて歩いた。
休日の『bakery AZUMA』は大変繁盛していた。前回の如く、小窓から中を覗くと、既にパン数は少なく、併設のカフェにも多くの人が座っている。
客で賑わう店内の中に佳人の姿を見つけて、東はドキッとして窓から身を離した。気持ちを落ち着けてから、もう1度覗き込む。
「お客様、よろしいければ中へどうぞ」
「うおっ」
こんな忙しい時間に来て、迷惑だろうか、一旦引き返そうか──そんな言い訳をしている時に突然後ろから声をかけられて、東は悲鳴を上げて振り返った。
「! あなた……」
「えっ、舞子さん?」
なんとそこに立っていたのは舞子だった。大きなこげ茶の瞳をまん丸にしている。少しふっくらした体型は相変わらずだが、1年前よりも大分髪が伸びて、下の方で1本に結っていた。
なぜこんな所に舞子が、と見間違いかと思ったが、何度見ても舞子に違いなかった。しかも『bakery AZUMA』と書かれたエプロンを付けていることに気づく。
驚きで東は動けなくなった。
舞子の顔が驚きから怒りに変わり、みるみる赤くなっていく。
「あなた! ここに何しに来たの! 佳人くんがここにいるって誰から聞いたの⁉︎ また佳人くんに酷いこと言いに来たんじゃないでしょうね!」
「ち、違います!」
「店まで来られても絶対に佳人くんには会わせませんからね!」
東も混乱しているせいで、うまく口が回らない。般若の如く怒る舞子を前になんて説明したらいいのか分からず、ただ「違います」「誤解です」と繰り返していた。
「おいおい、なんの騒ぎだ?」
異常を感じて、店内から誰か出てきた。父だ。よかった、これで疑いを晴らしてもらえる。そう安心した矢先、舞子からさらに想定外の言葉が飛び出た。
「あなた!」
〝あなた〟?
「この人、前に話した佳人くんのストーカーです!」
「えっ」
今度動きを止めたのは父の方だった。
東も状況が全く掴めない。脳がフル回転して、バラバラの情報をつなぎ合わせようとする。
父の店でなぜか舞子が働いている。
舞子が父を「あなた」と呼んだ。
世の中には、自分の夫を「あなた」と呼ぶ女性がいる。
分かってしまいそうだが、分かりたくない。
頭がガンガンと痛む。なんだろう、目眩で足元がフラフラする。倒れてしまってもいいだろうか……そう思う東の目の前に、また誰かが立った。
「俺が自分で呼んだんです、舞子さん」
目の前に佳人が立っていた。
こんな状況なのに、心が弾んだ。一気に体温が高くなり、ドキドキと心臓が鳴る。その一方、まるで恋する少女のような自分の反応が薄気味悪くて、頭は急激に冷えていった。
「お客さん、みんなびっくりしてますよ」
「あ……」
その言葉の通り、周りには人が集まり、遠巻きにこちらを見ていた。店内でパンを選んでいた人も、カフェでおしゃべりをしていた人も、誰もが不安げな視線を東たちに向けている。
さすがに冷静さを取り戻した舞子が、バツが悪そうに「ごめんなさい」と謝った。
「すみません店長、少し時間が早いんですけど、休憩頂いてもいいでしょうか」
「もちろんだよ。いっておいで」
父が鷹揚に頷く。
それを確認した佳人がこちらを振り向いた。
「ついて来い」
そう言って佳人はズンズンと大股で歩き出す。よく分からないまま、言われるがままに東は佳人を追いかけた。
佳人は先ほど東が歩いた道を戻り、来る途中に見たカフェの中に入って行く。来る途中にカップルが座っていた席がちょうど空いていて、佳人はそこに荷物を置き、注文カウンターに向かった。東もそれを追いかけた。
店内はイギリスのパブのような、少し古風だが味のある内装だった。年季は感じるが清潔で、分煙もしっかりされている。
メニューもホットサンドやパスタ、パブらしくフィッシュアンドチップスもある。メニューを眺めていると、すっと白くて細い指が生ハムサンドを指差す。
「これ俺のおすすめ、うまいよ。あとこれとこれも。あ、こっちも好き」
「そ、そうか」
普通に話しかけられて、東は戸惑った。その一方で、それだけのことが身震いするほど嬉しい。
「いっらしゃいませ! ご注文をどうぞ」
「ローストビーフサンドとマッシュポテト下さい。あとジンジャーエールも」
通い慣れているのか、佳人はスムーズに注文し、先に席に戻って行く。
「お客様、ご注文をどうぞ!」
「あ、えっと……」
結局、先ほど佳人が「うまいよ」とおすすめしてくれたものを全て注文した。
トレイの上には、生ハムサンドとチキンタルタルサンド、フィッシュアンドチップス、マッシュポテト、ジンジャーエールが山となって乗る。それぞれサイズ感も大きくて、食べる前から絶対食べきれないなと思った。
でも全部食べたかった。佳人が自分におすすめしてくれたもの。そこには愛おしさすら感じた。
転ばないように気をつけながら席に戻ると、スマホをいじっていた佳人が顔を上げ、その山を見た瞬間、ぶはっと吹き出した。
「東お前、頼みすぎだろ! 食べきれんの?」
「さすがに無理だと思う……」
「じゃあなんでこんなに頼んだんだよ。フィッシュアンドチップスとマッシュポテトとか、じゃがいもで被ってるし!」
「佳人が……」
ケラケラ笑う佳人が不思議そうな顔で「俺が?」と聞き返してくる。
「佳人が好きなものを、全部食べてみたかったんだ」
「…………そっか」
佳人は笑うのを止めると「いただきます」と手を合わせてから食べ始めた。
しまった、言うべきじゃなかった。気持ち悪いと思われただろうか?
どっと湧き出た不安で、たちまち胸がいっぱいになった。腹も空いていたはずなのに、食べようと思えなくて手をつけられない。
「食べねえの?」
不思議そうに佳人が聞いてくる。すでにサンドイッチは半分ほどになっていた。
「なんで、俺をここに呼んだんだ……?」
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