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「会いに行くよ。俺は、佳人が好きだから」  あれから2ヶ月。紅葉の季節は過ぎ去って、家の外はぐっと気温が落ち、冬がやってきた。年の瀬も迫る今、商店街は正月の準備のためにどこも大賑わいだ。  今日、佳人は早上がりの日で、12時ぴったりにタイムカードを押し『bakery AZUMA』を後にした。外は酷く冷えていて、ブルリと震えながらコートのポケットに手を突っ込む。白い息を吐き出しながら、佳人は歩き出した。  あの言葉の通り、東はあの日以来、うちのパン屋に通うようになった。大抵は東の仕事が休みで、佳人が出勤している土日のどちらかに来る。店に来る時は必ず、前日にメールが送られて来るが、だからと言ってこの間のように一緒にランチするわけでも、仕事終わりにご飯に行くわけでもない。東はふらっとやって来て、気まぐれにパンを選んで帰って行く。この間、珍しく閉店間際にやって来たから、夕飯に誘われるかもと身構えていた。しかし閉店後は東の父と一緒に居酒屋へ行って、帰って来た時は東の父1人だった。  今の東は、お店によく来る近所の主婦とそう変わらない。自分のことを好きと言っていた男のとる行動にしては淡白過ぎる。  東が何を考えているのか、いまいち分からない。でもこれくらいの距離感で十分な気もする。  「好きだ」と言われた時、「そうかよ」と返事をした。その声が小さくなってしまったのは、照れや戸惑いからではなく、人が自分の心に入ってこようとする時に感じる嫌悪感からだった。  番を解消されたΩに現れる症状としてよく挙げられているものが、この「コミュニケーションへのモチベーションの減退」だ。佳人の担当医によると、人間に備わった防衛本能の1つらしく、人間は様々な状況でこの防衛本能を発揮するが、番を失ったΩの場合、番解消の出来事がトラウマになり、それが原因となって人間不信に陥るという。さらにこの場合、本能的なトラウマとなっていることが多いため、症状は長引き、治らないことも多い。  佳人の嫌悪感の正体も、おそらく同じだろう。番という最も強力な結び付きを失ったことによるトラウマ。己の意思ではどうにもならないところが「人と関わればまた傷つくことになる」と、深く関わろうとするのを拒否する。同様に、深く関わられることにも。  「昔の幼馴染だったお客さん」。東にはそれくらいの距離感があるところに立ってくれていた方が、佳人としては安心する。深入りされる恐れもない。  だが同時に、このままではいけないとも思う。孤独は寂しいと、声がする。  もう一度、誰かを知ってみたい。でもそれが不快。  相反する感情がぶつかり合って、自分のことなのに、自分では判断が付かない。 「トラウマを克服したい。その心意気はいい。けどわざわざトラウマの元凶を、トラウマ克服の相手として選ぶか? 普通」 「普通、は選ばないよな……」  佳人は仕事終わりにやって来た病院の診察室にいた。 「当たり前だろ。自分が誰に苦しめられてきたのか、もう一度思い出せ」  「話はそれからだ」と目の前の白衣を着た男は、くるりと椅子を回して背を向けた。  佳人より一回りほど年上で、清潔な黒髪にフレームなしメガネ。真面目な生徒会長を連想させるこの男が、佳人が長年世話になっている精神科の担当医だ。  天草は精神科というデリケートな分野にも関わらず、患者にもナースにもズバズバ物を言うせいで、一部からは怖がられている。もちろん、賢いこの男のことだから人は選んでいるのだろうが。  佳人にとっては、この歯にもの着せぬ感じが逆に、嘘がないと思えて楽だ。 「でもあれからパンを買いに来るだけで何も言ってこないんだよな。何考えてんのか分かんねえ」 「何もしないと安心させてぱっくりいくつもりなんだろ。男が警戒心の強い相手を落とす時の常套手段だ」 「東がそんなことするはずないだろっ」 「恋愛感情にはいつだって下心があるんだよ。それが嫌だから、好きって言われた時気持ち悪かったんだろ」 「気持ち悪かったわけじゃねぇよ! ただ…少しぞわっとしただけで」 「それを一般的には気持ち悪いって言うんだよ」  天草はくるりと佳人に向き直ると、呆れたように深いため息を吐いた。 「赤松さん、言ってることと、やってることがちぐはぐだ」  核心を突かれて佳人は押し黙った。 「お前が本当に、その男と付き合うこと前提で関わっていくっていうなら止めない。だが、中途半端な同情ならやめろ。お前が傷つくだけだ。トラウマを克服するための相手なら、他になんぼでもいる」 「でも東がいいと思ったんだよっ」 「なら覚悟を決めろ。これから仲を深めて、お前たちは手を繋いでキスをしてセックスをすることになるんだ。お前が言っているのは、そういうことなんだと自覚を持て」  半年前、荒療治のつもりで作った恋人とセックスしようとして、人肌の感触に嘔吐したことを思い出す。  生温かい肌に、自分の心を曝け出さなければならない不安と、そこに踏み入って来る他人への嫌悪。 「でも、恋愛までいかなくてもいいって言ってたし……」 「あほ。そうだとしても、お前のことを好きって言ってる相手だぞ。9割5分は期待してるに決まってんだろ、甘えるな」  容赦のない言葉にムッとするが、何も言い返せない。 「人と本気で向き合うって事は、泣き言も言い訳もなしってことなんだよ。相手も覚悟決めて、開き直って、弱い所全部隠さずに来てる。本気の相手と向き合う時に、お前が本気じゃなくてどうする」  言い訳と逃げばかりだった東との数年間を思い出した。その時は佳人は本気だったけど、東は逃げていた。だから何もかもが拗れて、うまくいかなかった。今は、それが逆転している。 「恋人が無理だったら友達でいよう、なんてそんな考えはしないことだ。相手にも、赤松さん自身にも良い事なんて1つもない」 「はい……」  無意識のうちにそうやって楽観視していたかもしれない。東が恋人じゃなくてもいいって言うから、駄目だったらそれに甘えよう。そうやって逃げ道を用意してた。でもそれが、東にとってしたら苦痛でしかないことなど、少し考えれば分かる事だ。  自分が最低な考えをしていたことを自覚して、佳人は自己嫌悪した。落ち込んでいる自分を見て、天草が苦笑いする。 「色々厳しい事は言ったが、俺はお前が心配なんだよ。番を失ったΩはそれまでに十分、苦しんできた。そんな人たちが立ち直る時の、サポートすることが俺たちの仕事だ。道を違えそうならアドバイスもする。お前が今から選ぼうとしてる道は、成功率5分5分くらいの、厳しい道なんだよ。医者としては出来ればもっと安全な道を選んで欲しいんだが、お前が自分の意志で選ぶなら、俺は全力でサポートする」  佳人は思わず笑ってしまった。なんだこの人、かっこいいな。 「頑張ってみたい」  天草に叱咤されて、背中を押してもらって、歩き出す覚悟をする覚悟ができた。  人と関わって傷つくことが怖いという思いは変わらない。やっぱり東を受け入れられなくて、今度こそ永遠にさよならかもしれない。それも怖い。  でもこの感情に──「東とのさよならが怖い」に少し期待してみたい。きっと自分は、東とまた関わりたいと思っている。ここで関係が切れて欲しくないと思っている。  〝あの日〟、Ωやαという本能に、運命を狂わされた。佳人も東も、その古傷を今も引きずって生きている。  そろそろ、自分の意志で、本能に打ち勝つ時なんだ。それが今なんだ。  佳人は強く思って、自分を鼓舞した。いつまでも怯えたままではいけない。  東ともう1度、本気で向き合ってみたい。  昔のように後悔がしないように。  ようやく、0.5歩だけ、前に進んだような気がした。

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