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delet|
季節は巡り、春になった。商店街近くの川縁では、ソメイヨシノが満開になり、休日になると花見客で賑わっている。
佳人が東と再会して、半年が過ぎた。年明けに東から初詣に誘われて以来、たまに2人で食事をしたりするようになった。最初の頃は、誘い出すのはほとんど東で、最近誘われてばかりだな、と思った時に佳人から誘うような形で食事を重ねた。
東と本気で向き合っていくと決意を決めても、すぐには心が追いついて来なかった。自分から動かなければ意味がないことなど百も承知だったが、もし突然、東が明確な恋愛感情を示してきたらと、考えるだけで嫌悪感があり、怖くなった。東と会う度、次は手を繋ぐことになるかも、キスされるかもと前の日の夜から緊張していた。
だが一緒に食事に行くようになって4ヶ月経った今も、東は一向にそういったものを見せる気配がない。パン屋に毎週通っていた頃と同じ淡白さは相変わらずで、佳人のことを好きだと言ったことなんて忘れてしまったように振る舞う。昔を思い出すような気さくさで話しかけて来て、普通の男友達みたいな会話をする。今日の仕事はどうだった、昨日やってた映画懐かしかったな、最近ハマってるマンガがあって、そう言えばこの間こんなことが──話していると高校の頃に戻ったようで、懐かしくなる。高校なんてもう10年も前の話になるのに、東とは間の記憶がないせいか、簡単にタイムスリップできる。
熱のある目で見られることも、手を繋ごうとされたこともない。本当に今は、ただの友達のような関係になっている。友達として東と関わる事は楽しい。精神ダメージを負って以来、人と関わる事を避けていた佳人はそれまでの友達とは疎遠になっていた。とにかく人と深く関わることが億劫になっていたのに、知らない間にそのラインは克服していたらしい。精神科の治療がうまくいっているのか、いつの間にか時間が解決してくれていたのか、はたまた両方だろうか。
前の日は不安で眠れなかった東との約束の日が、楽しみに変わった。
自分も少しずつ変化しているのだと実感でき、嬉しい。恋愛感情なのかは分からないが、東のことは素直に好きだと、そう思えるようになった。
「じゃあお前、そいつとキスできんのか」
前回の定期検診で天草にそう聞かれた。
東とはキスしたことがあるはずだが、今はうまくイメージができない。
「分かんねぇけど、嫌じゃない……と思う」
「まじかよ」
昔は荒れていたと噂の天草は、時折言葉遣いにその片鱗を見せる。以前は触られただけで嘔吐し、4ヶ月前までは手を繋ぐと言われるだけで悪寒を感じていた人の発言とは思えない、そんな考えが透けて見えるような訝しげな目で、じろりと睨めつけられる。終いには「これも回復の兆候なのかねぇ」と頭を掻いた。
「ただ、あんま調子に乗って、焦るんじゃないぞ」
姑のような小言に「分かってるって」と軽く返事をして、その日の診察は終わった。最近は睡眠薬に頼ることもなくなり、通院以来初めて、薬の処方がなかった。
このまま行けば、東をそう言う意味で好きになれる日も近いんじゃないかと、そう思う。東がいい奴だと言うことは幼馴染の自分が一番よく知っている。母方の祖父夫婦が男性同士だったこともあって、たぶん一般人よりも同性同士の恋愛に抵抗はない(そもそも同性カップルは珍しくない)。なによりも自分たちは元「番」同士なのだ。この友情としての「好き」が恋愛の「好き」になるのも、時間の問題だ。そして今の佳人は、その関係に変わっていくことに不快感を覚えない。
「佳人! 悪い、待たせて」
「全然平気。早く行こうぜ。イカ焼き食べたい」
「お前昔っからイカ焼きが好きだよな」
午後6時半。佳人と東は花見会場で待ち合わせをしていた。
『土曜に店に行くよ。バイト上がった後、また夕飯一緒に食わないか?』
そうメールが届いたのは火曜日の夜。佳人は片手で歯ブラシを動かしながら、携帯をタップした。『いいよ』と打ってから、ふと思い付き返信を書き直す。
『せっかくなら花見行かね? 6時からのライトアップが綺麗だって舞子さんが言ってて、ちょっと気になる。あと今屋台も出てるらしい』
『了解。じゃあ6時半に会場の入り口に集合で』
レストランで食事じゃない約束をしたのは、初詣以来だった。
昨日の夜は久しぶりに眠れなかった。以前のような緊張ではなく、遠足前の小学生がするようなドキドキが胸を支配した。おかげで今日の朝はギリギリだった。
「思ってたよりも人はいないな」
舞子が「人がいすぎて全然前に進めなくて、帰ってくるのも大変だった」と言っていたから覚悟してきたのに、人はまばらだ。
「あーもう散り始めてるからだな。結構葉桜になってる」
川縁の桜を見上げながら東が言う。確かに葉桜になっている木もあるが、まだまだ見応えがある。
桜の木がある反対側にはずらりと屋台が並び、そこは客で溢れ返っていた。人は花よりも屋台に夢中のようだ。
「腹減っただろ。適当に買ってくるから、座れる場所探しててくれ。イカ焼きの他に欲しいのあるか?」
視線の先に見えた牛タン串を頼んで、東と別れる。人混みに入って行っても、背の高い東は、頭だけがいつまでもぴょこぴょこ覗いていて可笑しかった。高校の時点で178センチくらいあったはずだが、恐らくもっと伸びている。小さい頃から小柄で、日本男子の平均身長にも達していない佳人にとっては、羨ましいを通り越してもはや恨めしい。店長──東の父親もΩだが、佳人はそれよりも低いのだ。
ちぇっと少しだけむくれながら、座って食べられる場所を探した。ベンチなどが設置されている公園は桜も見やすくて人気スポットだが、案の定人で溢れ、座れそうな所はない。公園を諦めて移動しようとした時、運良くすぐ横のベンチに座っていた老夫婦が立ち上がった。桜が目の前にある絶好のスポットを取れた嬉しさで、身長で不機嫌になっていたことなどどこかに飛んで行った。
木の素材が生きたベンチに腰掛け、東を待つこと10分。両手にたくさんの食べ物を持った東が帰って来た。半年前に再会した時にランチをしたカフェでも、トレイに盛り盛りに食べ物を乗せていたことを思い出して、佳人は笑った。
「いい席だな」
東は佳人と自分の間に買って来た物を置いた。佳人の反対側の端に腰掛ける。
頼んだものの他に、ポテトフライと焼きそば、大名焼きを買って来ていた。
「あとこれもあるぜ」
東がズボンのポケットから銀色の缶を取り出して見せる。
「ビール! お前……最高かよ」
「だろ。はい、かんぱーい」
ついさっきまで氷水に浸されていたのか、缶は少し濡れていた。冷たいビールが喉を通り抜けていく。
「うめぇー」
「最高だな!」
空腹だったせいもあり、屋台名物のどでかいイカ焼きはぺろりと胃に収まった。
「うわ、たこ小さー」
「ほんとだ。すっげぇ小さい」
俺もイカ焼きにすればよかったなあ、と呟きながら、東は異常にたこの小さいたこ焼を食べる。体は大きいくせにそんなことで落ち込んでいる東が可笑しくて、佳人はけらけら笑った。
頼んだ牛タン串はびっくりするほど塩辛くて、なんとか塩を落とそうとする佳人を、今度は東が笑った。肉が厚くて大きいだけに悔しい。結局しょっぱいのをどうすることもできなくて、ビールで誤魔化しながら食べた。そのせいであっという間にビールは2缶目に入った。
「ペース早いな。佳人はあんまりお酒強くないだろ。ゆっくり呑めよ」
「酔っ払っても東が送ってってくれるだろ」
最後のたこ焼きを摘んだ箸が止まる。
「……そうだけど」
たこ焼きを食べ終えた東が、プラスチックの入れ物を輪ゴムで閉じ、立ち上がった。
「……やっぱりイカ焼き食べたいから買ってくるわ」
大きめの声でそう告げ、東はさっさと屋台の方へ向かって行った。まだ大名焼きがあるのに、これは自分に買ってきてくれたものということか?
大名焼きが入った白い紙袋を開くと、2つ入っている。左側の大名焼きの皮を指で突くと、クリーム特有の柔らかい感触がして、佳人はそれを取り出した。佳人がクリームが好きだと言うことを、東は覚えてくれていたらしい。
東がいないと突然暇になって、佳人は大名焼きに齧り付きながら、ふと後ろを振り返り、ギョッとした。視線の先に座っていた男女のカップルがキスをしていた。こんな人目がある所ですごいな、と思ったが、辺りを見回すとみんな酒を飲んでいたりして周りのことなど見ていない。
もう1度、こっそりと覗き見てみる。以前は人のこう言った行為を見るのも不快だったが、いつの間にかそれも克服していたようだ。
キスしているカップルは気持ちよさそうに目を閉じている。
佳人はもうキスした時の感覚なんて思い出せない。セックスもしたのは〝あの日〟と、前に会社で東にされたレイプ紛いな時っきりで、いい思い出はない。
してみたい、と素直に思った。東としてみたい。
そこで初めて、佳人は自分が東を好きなんだと自覚した。セックスをしたいと思う相手に向けるのが恋愛感情じゃなければ、なんだと言うのだろう。
東といる時間が楽しくて大切で、東ともっと関わってみたいと思う。
「佳人、どうしたぼんやりして」
いつの間にか帰って来ていた東が、イカ焼きを片手に元の位置に座る。
佳人はベンチの真ん中に手を突き、ぐっと東に詰め寄った。
「東、俺にキスしてくれよ」
ぼたん、と買ったばかりのイカ焼きが地面に落ちる。東は目を丸くして固まっていた。
「俺、お前を好きになったんだと思う。お前とキスしたいと思ったから、たぶんそう」
「ま、待て。待て待て。落ち着け佳人。酔ってるのか?」
「ちょっと酔ってるかもしんねぇけど、正気だよ」
「いや正気じゃないだろ。落ち着け、水買ってくるか?」
「正気だってっ」
水を買いに腰を上げかけていた東が、佳人の大声に動きを止めた。ハッとして辺りを見回すが、みんな盛り上がっているようで、誰も佳人の大声に気づいていないようだった。
さっきのカップルを見て、東とキスしてみたいと思ったという事を改めて話した。
「好きだからキスしたいって思うんだろ? だから俺は東が好きなんだよ」
「でもお前、そんな素振り1度も……」
「それは東もだろ。俺のこと、もう好きじゃないのか?」
「好きに、決まってるだろ」
東はそう言って、俯いた。膝の上で握られた手が真っ白になっている。
「でも、お前トラウマがあるんだろう」
「あるけど、最近は治ってきてる。今までは自分がキスすることを想像しただけで気持ち悪かった。でも東となら、したいって思えるんだよ」
東が恐る恐る顔を上げる。本当に? と尋ねてくる目は不安げで、戸惑っている。
「何回も言うけど、俺は東が好きだ。だからキスしたい。お前も俺が好き。それだけで十分じゃないのか?」
そう言うと、東は不安が残る声で「分かった」と言った。でもその瞳の奥には、確かに、今までは決して見せなかった情欲が燃えている。
食べ物を寄せた東が、佳人の隣に座って来る。こんなに近距離に東がいるのも久しぶりで、ドキドキした。
「本当に、いいんだな?」
また東が聞いてくる。これが最終確認なのだと分かった。しかし何度自分の心に問い返して見ても、答えは変わらない。
東が好きだ。
佳人が頷くと、東はやっとホッと息を吐き、ふわりと甘い笑顔になった。
「嬉しいよ。すごく。俺も佳人が好きだ」
その声色の甘さに恥ずかしくなって、佳人はぶっきらぼうに「ああ」と返事した。恥ずかしがっているのはお見通しのようで、不機嫌になることなく東は微笑んでいる。
「目……閉じて」
低い声。佳人はゆっくりと目を閉じた。
東が佳人の肘の下辺りを、優しく掴んでくる。
……そこから、ぶわっと鳥肌が立つのが分かった。
あれ? と思った時には唇同士が触れていた。
瞬間、とてつもない不快感が背筋を走り抜けていった。生温い、他人の体温。湿った唇。誰かが自分の心に入り込んでくる──恐怖。不快感。嫌悪感。
以前セックスしようとして吐いた時と、全く同じ感覚。大量の毛虫たちが、佳人の足元をぞわぞわと這い上がって来る。
なんだこれ。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い!
「うわああああっ」
気が付いたら佳人は、東の体を突き飛ばしていた。
喉がきゅっと締まり、腹の辺りが痙攣する。だめだ、吐く。
佳人は無我夢中に走って、公園の藪の中に飛び込み、木の幹に手を付いた。喉がえぐっえぐっ、と数度大きく痙攣した後、胃から何かが込み上げてきて、口から出る。口の中に胃酸特有の、不愉快なすっぱさが広がった。
猛烈な不快感が遠のいて行き、今はただただ酸欠で苦しい。
数分経ってようやく落ち着いた頃、顔の横にペットボトルが差し出された。
「……大丈夫か」
東は今まで見たことがないくらい、辛そうな顔をしていた。顔に血の気はなく、目がじゅうけつしている。
佳人は自分が何をしてしまったのかを理解した。後悔と絶望が押し寄せて来る。
「あ、ずま…ごめん、ごめんっ、おれ…っ」
「……もう、会うのはこれっきりにしようか」
なぜか東は、へらりと笑った。その笑顔があまりにも痛々しくて、涙が溢れた。そんな顔をさせてしまっているのは自分なのだと分かっているから、苦しい。
「東、ごめん、俺……っ、でも、俺は本当にお前が好きなんだっ」
東が好き。その気持ちは嘘ではないし、作り物でもない。東と関わるうちに生まれた、佳人の感情だ。
東とキスしたかった。それも本当。でもできなかった。それが現実。
『あんま調子に乗って、焦るんじゃないぞ』
天草は忠告してくれていたのに。失敗して、また東を傷つけてしまった。
「嘘じゃない、ほんとに、東が好きなんだよ…っ、だから」
「俺も、佳人が好きだよ」
東は水を差し出す腕を、だらりと下げた。佳人の横に立つ東の目から、ぽろりと零れるものが見える。それは1つ、2つ3つと、止め処なく落ちた。
「俺も佳人を好きだよ。佳人が好きだから、佳人にキスして、こうして吐かれるのは……辛すぎて死にたくなる」
死になくなる、という言葉が、佳人の頭をガンッと殴る。
「佳人が俺を好きだって言ってくれて嬉しい。その気持ちを、俺は疑ったりしない。きっと佳人はまだ、気持ちに体が追いつけてないだけなんだ。分かってる。全部分かってる。分かってるけど……俺には辛すぎる……っ」
暗い藪の中で、2人して泣きじゃくった。
ごめん、ごめんと、何百回と謝った。それでも謝り足りなくて、また謝った。
目の前で好きな人が泣いているのに、背中をさすってもやれない。頭を撫でて慰めることもできない。だってこんなにも辛そうに泣かせているのは、自分で。自分は好きな人に触ることができない。
虚しくて、悲しくて、寂しくて、苦しい。
佳人が思っていたほど、自分が選んだ道は簡単ではないのだと、この日初めて思い知った。
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