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   六月某日。普段なら自宅にいるはずの午後10時。帰宅ラッシュの電車とは反対方向の電車に乗り、佳人は都心へ向かっていた。  1時間前。佳人は仕事を終え、夕飯も終えてテレビ番組を見ていた。もうあとは寝るだけだった時に、スマートホンが鳴った。  友人が少ない佳人の電話を鳴らすのは大体職場か親で、時間帯的に親かなと思いながら、スマートホンを手に取って、浮かんだ『東』の字にギョッとした。  再会してからの半年間、東とはメールのやりとりのみで、電話がかかって来たのはこれが初めてのことだった。しかもこんな時間に。なんだか嫌な予感がして、胸が騒つく。  緊張で少し震える指で、佳人は通話をタップした。 「……はい」 『あ、出た。もしもし、こちら赤松佳人さんの携帯でお間違えないでしょうか』  相手は東ではなかった。緊張感のない声に、佳人は表紙抜けした。 「そうですけど……」 『夜分遅くにすみません。私、東くんの会社の上司で、大屋敷と申します。今日、社内で飲み会があったんですが、東が潰れてしまいまして。とても1人で帰れる状態じゃないので、赤松さんに迎えに来て頂きたいんです』 「え」 『メールでお店の場所を送っておきますので。よろしくお願いしますね』 「えっ、ちょ、」  強引に用件だけ告げて、電話を一方的に切られた。あまりの急展開に頭が付いていけず、ぽかんとしている間に例のメールが送られて来る。開いてみると、店はここから電車で1時間は掛かる都心の居酒屋だった。 (こんな時間かかんならタクシー詰め込んだ方が早いだろ……。てか、迎えに来いって、迎えに行っても帰る場所一緒じゃねぇんだけど?)  明日の仕事は仕込みから入るから、朝も早い。正直そろそろ休まなければいけない。しかし断ろうと電話をかけ直してみても、電話がもう一度繋がることはなかった。  渋々家を出てきて、今に至る。帰りは帰宅ラッシュで混雑した向こうの電車に乗らないといけないと思うと、気持ちが沈んだ。けどそれ以上に、東と会うことを躊躇う自分がいる。  4月の花見以来、佳人と東の間には埋まらない距離があった。それは花見の日より前にはなかったものだ。  あの日は体力も心もボロボロになりながら家に帰った。ぽっかりと心に風穴が空き、そこを冷たい風が通り向けていくような虚ろな気分だった。それでも東に謝らなければと、『ごめん』とだけメールを送った。言い訳も、釈明も、そんなものはない。あの時、自分が起こしてしまった事実は変わらない。自分に対する認識の甘さや、あの時の東の顔を思い出して、自分に吐き気がした。  いつもならすぐに帰ってくる返信。だけどその日のメールに返事が来たのは、丸一日が経ってからだった。 『俺こそ悪かった。俺も覚悟が足りなかった』  「覚悟」という2文字が、何トンの重さにもなってのしかかってきた。この言葉を東がどんな思いで書いたのだろうと、想像するだけで苦しくなった。  東はそれからも、いつも通り店にやって来た。そしていつも通り、佳人と一緒に昼食や夕食を摂る。一見、いつも通り。でも確かに、今までとは違う。お互いよそよそしくて、会話も拙い。東がじわじわと、無理なく縮めていてくれた距離を、佳人が全て台無しにしてしまった。1マス戻るどころか、ふりだしに戻してしまった。  「焦るなよ」と忠告してくれていた主治医の天草の所へ定期検診に行った際、全て報告した。天草からは「だから言っただろ」と容赦ない一言が返って来た。 「番解消の代償って言うのは、本当に重いんだよ。ちゃんと説明しただろうが。喉元過ぎればってやつか?」 「で、でも、あの時は本当にキスできるって思ったんだ。これは本当」 「そもそも。そもそもだぞ? お前本当にそいつが好きなのか? どこが好きか言ってみろ」 「はっ? なんでそんな恥ずかしいこと……」 「いいから。俺はこんなこと一ミリも興味ないが、診察なんだよ。ほら早く」  そう言われるとなんだか癪だったが、佳人は口を尖らせながらも言われた通りにした。 「や、優しいとことか。中学ん時、Ωっていじられてた俺を助けてくれたし。αってことを鼻にかけたりしないとこ。あとは……発情期になった時、いっつも東のこと思い出してたし? これって好きって事だろ」 「今のそいつの好きな所は?」 「え、今? 今……も、普通に優しい所とか。俺Ωであんま力強くないから荷物持ってくれるし、たまにご飯奢ってくれる」  そこまで言って、この状況の恥ずかしさに限界が来た。「もういいだろ」と天草を見ると、天草は真面目な顔でこちらを見つめていた。 「Ωを差別してなくて、荷物を持ってくれて、飯を奢ってくれる男なんて他にどれだけでもいるぞ」 「! そうかもしんねぇけど……」 「恐らく、今のお前が持つその〝好意〟は、かつて番だった頃のΩ性に引っ張られて生まれたものだ」 「……どういうことだ?」 「お前自身の感情と言うよりは、第二次性という本能から生まれた感情って事だよ。番はお互いに惹かれ合う。例えそれが事故で、お互いに気持ちがなかったとしてもだ。αは番のΩを、Ωは番のαを自然に好きにってしまうんだよ。今の赤松さんは、番だった頃のその「好き」に引っ張られてる。だから「好き」だと思い込んでる。でも実際は違う。だから体も拒否をする。まあ拒否反応の方は、完治してないって言うのもあるが」 「……この「好き」は作り物って言うことか?」 「その可能性は高い」  その話を聞いて以来、もう何もかもが分からない。どんな顔で東に会って良いか分からず、それから何かと理由を付けて東の誘いを断り続けていた。  そして今日、1ヶ月ぶりに東に会う。なんの心の準備も出来ていないのに。  膝の上で固く握った拳が、脂っぽい汗で湿って気持ち悪かった。

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