28 / 35

del|

 電話をもらってから1時間半。佳人はメールされた居酒屋に辿り着いた。メールされた時は気がつかなかったが、店は東のオフィスから程近い飲み屋街の一角にあった。1年前、オフィスにアルバイトで来ていた頃に通った道を見かけ、懐かしさを覚えた。  しかし懐かしさで心が穏やかになったのも束の間、店の前に着いた瞬間、同じ緊張が体を動かなくする。店に入る事もできず、店前でうろうろしていると、中から出てきたリーマンと目が合った。 「赤松佳人さん?」 「あ、はい」  その声は電話越しで聞いた声と同じだ。 「ああ良かった! 来てくれたんだ。なかなか来ないので、無視されたのかと思いました。今、東を連れてきますね」  そう言って再び店に引っ込み、言葉通り東を連れて店を出て来た。  東が酔って潰れたと聞いていた。しかし東は至っていつも通りだ。顔が赤いわけではないし、自分で立っているし、足元も大丈夫そうだ。とても1人で帰れなさそうには見えない。 「佳人……? なんでここに……」  東は眠いのか目はとろんとし、ゆっくりした口調で話す。 「迎えに来てくれたんだよ。ほら、さっさと帰りなさい。じゃ、赤松さん、よろしくお願いしますね!」 「え、大屋敷さん……?」  大屋敷と呼ばれたリーマンが東の背中をどん、と押す。よろついた東が佳人の目の前まで来て、佳人は思わず一歩下がってしまった。  それを見た東が、悲しそうに眉を寄せる。そしてふらりと佳人を避け、1人で歩き出してしまった。 「あ……」 「赤松さん」  自分を呼ぶ声に振り向く。 「ちゃんと会話してあげて下さいね」  「それじゃあ」と大屋敷が踵を返す。その瞬間、大屋敷は佳人と東の事を知っているのだと悟った。きっと分かっていて、わざわざ佳人をここに呼んだのだ。 「あっ。東」  ハッと振り向くと、東はフラフラと1人で歩き続けていた。慌てて追い掛ける。改めて見ると、足元が覚束ない。 (あいつ、顔に出ないタイプかよ)  小走りで東の右隣に並ぶ。すると東が、ふいっと顔を背けた。 「……なんで付いて来るんだ」 「なんでって、誰の為にこんな時間に呼び出されたと思ってんだよ」 「ほっとけば良かっただろ」  いつも落ち着いた東らしくない、子供っぽい言い草。拗ねたように、こちらを見ようともしなかった。上司の勝手で強引に呼びつけられたのはこっちだが、怪しい足つきで歩く東が危なっかしくて言い返す気にもなれない。 「とにかくタクシーでも拾おう。気分が悪いならどっかで座って──」 「その気もないのに優しくするのはやめてくれよッ!」  その大声に、騒がしい繁華街が一瞬静まる。そして「なに?喧嘩?」「こわーい」と2人と距離を取りながら、人が通り過ぎていく。  初めて聞く東の怒声に佳人はポカンと口を開けたまま、固まった。 「……くそっ」  東が吐き捨て、さっきよりも早足で歩き出す。まるでこの場から逃げるような東を、佳人は追い掛けた。  その直後、ちょうど左隣にあったファストフード店から、誰かが飛び出して来た。その人影はそのまま、目の前にいたリーマンの足元に転がる。OLのようだが、着ているブラウスは着乱れ、下着が露出していた。  真っ赤な顔をした女性が顔を上げる。佳人が「まずい」と思った瞬間、ぶわっと強烈な甘い香りが辺りに広がった。 「ヒート……!」  いち早く正気に戻った佳人が、バッグから特効薬を取り出す。しかし女性の悲鳴に顔を上げた。目の前にいたリーマンが、女性を押し倒している。その目の色は完全に変わっている──αだ。  次の瞬間、佳人はハッとした。 「東!  Ωのヒートだ! 離れろ!」  今の東は番のいないαだ。早く女性から遠ざけなければと、腕を強く引っ張るが、逆にその手を払われてしまった。  よろけている内に、東が大股で女性に近づいて行く。 「東ッ‼︎」  Ωフェロモンにやられているであろう東とリーマンを、何とかして遠ざけなければ、 と佳人はすぐに起き上がった。その目の前に、誰かが転がる。女性を襲っていたリーマンだ。  見ると女性の元には東がいて、リーマンが投げ捨てられたのだと気付く。まずい、と立ち上がった時、「佳人!」と呼ぶ声がした。 「その人を押さえておいてくれ!」  最初は誰の声だか分からなかった。戸惑っている佳人に「早く!」と東が叫ぶ。何がどうなっているのか分からないまま、言われるがままに佳人はリーマンを地面に押さえ込んだ。 「αの人は離れて! βかΩの方! 救急を呼んでください!」  東がそう叫ぶ傍で、女性に注射を打っているのが見えた。  その呼び声に人が集まり、OLは別の女性に任せた東が、こちらへやってくる。  男を押さえながら東を見上げて、佳人は悲鳴を上げそうになった。目がギラギラと光った真っ赤な顔は、まるで鬼のようだった。  東は膝を付くと、今度はリーマンに注射を打つ。そのままふらりと立ち上がると、人混みを掻き分けて走り出した。 「東!」  手助けに来てくれた人にその場を任せ、東を追う。東は繁華街を抜けた所にある公園に入って行った。佳人が公園の入り口に辿り着くと、東は花壇の横のベンチに座り、ぐったりとしていた。気を失ったりしているんじゃないかと不安になり、慌てて駆け寄る。 「来るな!」  あと1メートルという所でそう叫ばれ、佳人は足を止めた。 「薬が効くまでもう少しかかる……、それまで近づくな」  見るとベンチの端に、注射器が転がっていた。 「なんで……」  なぜαなのにヒートを起こしたΩを前にして、正気でいられた? 誘引されてヒートを起こしていない様ではなかったが、それでも症状が軽かった、αなら、さっきのリーマンのようになる方が普通だ。 「……抑制剤を飲んでるんだよ、α用の」  呼吸を整えながら、東が言う。  α用の抑制剤。Ωの誘引フェロモンが効きにくくなるものだ。Ωが抑制剤を常飲し備える方が一般的な為、存在はしているものの、服用している人少ない。  佳人も東が服用していたなんて知らなかった。 「それでもやっぱキツイな……Ωのヒート。目眩がして、頭が沸騰しそうだった」  抑制剤のおかげか、少し落ち着いて来たようだ。また傍の注射器が目に入り、佳人は再び 「なんで」と呟いていた。注射器を見ていることに気づいた東が、何が言いたいのか察したように口を開く。 「常備してるんだ。Ω用の特効薬と、α用の特効薬。……良かった、間に合わなくなる前で」 「なんで……」  なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。  鼻の奥がひりつき、こめかみが締め付けられるように痛む。  拳を握って立ち尽くしていると、東がふっと微笑んだ。 「泣くなよ」  そう言われても、止められなかった。  東がα用の抑制剤を常飲している理由。  α用とΩ用の特効薬を持ち歩いている理由。  それを都合良いように解釈してしまって、いいんだろうか? でもこの解釈以外に、理由が浮かばない。  この考えは虫が良すぎるだろうか? 「好きだよ、佳人」  優しい声に佳人は顔を上げた。涙でよく前が見えない。 「キスして吐かれたのは悲しかったけど、佳人を嫌いにはなれない。好きになることをやめられないから、悲しくて苦しい。でもこれが好きだっていう証なら、それごと愛しいって思うんだよ」 「おまえ、さっき俺に怒鳴ったくせに……」 「あれは……ごめん、酔っ払ってた。1ヶ月誘いを断られた続けたんだから、少しは許せよ」 「あほか」  思わず笑みが漏れる。 「佳人、俺、全然急いでないから。佳人の気持ちも疑ってない」  東はきっぱりとそう言った。その表情にはなんの曇りもなかった。 「俺たちには時間が必要なんだよ、たっぷりの時間が。だからゆっくり、ゆっくりやり直そう」  この距離も、今の自分たちには必要だと思っていいんだろうか? 「佳人、好きだ。何回拒絶されて吐かれて、殴られてもこの気持ちは変わらないから」 「それは、やばいだろ」  そう笑うと、東も「やばいか」と笑った。 「ゆっくりやろう。消してしまった〝あの日〟をやり直そう、2人で、一緒に」  その言葉に佳人は頷いた。

ともだちにシェアしよう!