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電話をもらってから1時間半。佳人はメールされた居酒屋に辿り着いた。メールされた時は気がつかなかったが、店は東のオフィスから程近い飲み屋街の一角にあった。1年前、オフィスにアルバイトで来ていた頃に通った道を見かけ、懐かしさを覚えた。
しかし懐かしさで心が穏やかになったのも束の間、店の前に着いた瞬間、同じ緊張が体を動かなくする。店に入る事もできず、店前でうろうろしていると、中から出てきたリーマンと目が合った。
「赤松佳人さん?」
「あ、はい」
その声は電話越しで聞いた声と同じだ。
「ああ良かった! 来てくれたんだ。なかなか来ないので、無視されたのかと思いました。今、東を連れてきますね」
そう言って再び店に引っ込み、言葉通り東を連れて店を出て来た。
東が酔って潰れたと聞いていた。しかし東は至っていつも通りだ。顔が赤いわけではないし、自分で立っているし、足元も大丈夫そうだ。とても1人で帰れなさそうには見えない。
「佳人……? なんでここに……」
東は眠いのか目はとろんとし、ゆっくりした口調で話す。
「迎えに来てくれたんだよ。ほら、さっさと帰りなさい。じゃ、赤松さん、よろしくお願いしますね!」
「え、大屋敷さん……?」
大屋敷と呼ばれたリーマンが東の背中をどん、と押す。よろついた東が佳人の目の前まで来て、佳人は思わず一歩下がってしまった。
それを見た東が、悲しそうに眉を寄せる。そしてふらりと佳人を避け、1人で歩き出してしまった。
「あ……」
「赤松さん」
自分を呼ぶ声に振り向く。
「ちゃんと会話してあげて下さいね」
「それじゃあ」と大屋敷が踵を返す。その瞬間、大屋敷は佳人と東の事を知っているのだと悟った。きっと分かっていて、わざわざ佳人をここに呼んだのだ。
「あっ。東」
ハッと振り向くと、東はフラフラと1人で歩き続けていた。慌てて追い掛ける。改めて見ると、足元が覚束ない。
(あいつ、顔に出ないタイプかよ)
小走りで東の右隣に並ぶ。すると東が、ふいっと顔を背けた。
「……なんで付いて来るんだ」
「なんでって、誰の為にこんな時間に呼び出されたと思ってんだよ」
「ほっとけば良かっただろ」
いつも落ち着いた東らしくない、子供っぽい言い草。拗ねたように、こちらを見ようともしなかった。上司の勝手で強引に呼びつけられたのはこっちだが、怪しい足つきで歩く東が危なっかしくて言い返す気にもなれない。
「とにかくタクシーでも拾おう。気分が悪いならどっかで座って──」
「その気もないのに優しくするのはやめてくれよッ!」
その大声に、騒がしい繁華街が一瞬静まる。そして「なに?喧嘩?」「こわーい」と2人と距離を取りながら、人が通り過ぎていく。
初めて聞く東の怒声に佳人はポカンと口を開けたまま、固まった。
「……くそっ」
東が吐き捨て、さっきよりも早足で歩き出す。まるでこの場から逃げるような東を、佳人は追い掛けた。
その直後、ちょうど左隣にあったファストフード店から、誰かが飛び出して来た。その人影はそのまま、目の前にいたリーマンの足元に転がる。OLのようだが、着ているブラウスは着乱れ、下着が露出していた。
真っ赤な顔をした女性が顔を上げる。佳人が「まずい」と思った瞬間、ぶわっと強烈な甘い香りが辺りに広がった。
「ヒート……!」
いち早く正気に戻った佳人が、バッグから特効薬を取り出す。しかし女性の悲鳴に顔を上げた。目の前にいたリーマンが、女性を押し倒している。その目の色は完全に変わっている──αだ。
次の瞬間、佳人はハッとした。
「東! Ωのヒートだ! 離れろ!」
今の東は番のいないαだ。早く女性から遠ざけなければと、腕を強く引っ張るが、逆にその手を払われてしまった。
よろけている内に、東が大股で女性に近づいて行く。
「東ッ‼︎」
Ωフェロモンにやられているであろう東とリーマンを、何とかして遠ざけなければ、
と佳人はすぐに起き上がった。その目の前に、誰かが転がる。女性を襲っていたリーマンだ。
見ると女性の元には東がいて、リーマンが投げ捨てられたのだと気付く。まずい、と立ち上がった時、「佳人!」と呼ぶ声がした。
「その人を押さえておいてくれ!」
最初は誰の声だか分からなかった。戸惑っている佳人に「早く!」と東が叫ぶ。何がどうなっているのか分からないまま、言われるがままに佳人はリーマンを地面に押さえ込んだ。
「αの人は離れて! βかΩの方! 救急を呼んでください!」
東がそう叫ぶ傍で、女性に注射を打っているのが見えた。
その呼び声に人が集まり、OLは別の女性に任せた東が、こちらへやってくる。
男を押さえながら東を見上げて、佳人は悲鳴を上げそうになった。目がギラギラと光った真っ赤な顔は、まるで鬼のようだった。
東は膝を付くと、今度はリーマンに注射を打つ。そのままふらりと立ち上がると、人混みを掻き分けて走り出した。
「東!」
手助けに来てくれた人にその場を任せ、東を追う。東は繁華街を抜けた所にある公園に入って行った。佳人が公園の入り口に辿り着くと、東は花壇の横のベンチに座り、ぐったりとしていた。気を失ったりしているんじゃないかと不安になり、慌てて駆け寄る。
「来るな!」
あと1メートルという所でそう叫ばれ、佳人は足を止めた。
「薬が効くまでもう少しかかる……、それまで近づくな」
見るとベンチの端に、注射器が転がっていた。
「なんで……」
なぜαなのにヒートを起こしたΩを前にして、正気でいられた? 誘引されてヒートを起こしていない様ではなかったが、それでも症状が軽かった、αなら、さっきのリーマンのようになる方が普通だ。
「……抑制剤を飲んでるんだよ、α用の」
呼吸を整えながら、東が言う。
α用の抑制剤。Ωの誘引フェロモンが効きにくくなるものだ。Ωが抑制剤を常飲し備える方が一般的な為、存在はしているものの、服用している人少ない。
佳人も東が服用していたなんて知らなかった。
「それでもやっぱキツイな……Ωのヒート。目眩がして、頭が沸騰しそうだった」
抑制剤のおかげか、少し落ち着いて来たようだ。また傍の注射器が目に入り、佳人は再び
「なんで」と呟いていた。注射器を見ていることに気づいた東が、何が言いたいのか察したように口を開く。
「常備してるんだ。Ω用の特効薬と、α用の特効薬。……良かった、間に合わなくなる前で」
「なんで……」
なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。
鼻の奥がひりつき、こめかみが締め付けられるように痛む。
拳を握って立ち尽くしていると、東がふっと微笑んだ。
「泣くなよ」
そう言われても、止められなかった。
東がα用の抑制剤を常飲している理由。
α用とΩ用の特効薬を持ち歩いている理由。
それを都合良いように解釈してしまって、いいんだろうか? でもこの解釈以外に、理由が浮かばない。
この考えは虫が良すぎるだろうか?
「好きだよ、佳人」
優しい声に佳人は顔を上げた。涙でよく前が見えない。
「キスして吐かれたのは悲しかったけど、佳人を嫌いにはなれない。好きになることをやめられないから、悲しくて苦しい。でもこれが好きだっていう証なら、それごと愛しいって思うんだよ」
「おまえ、さっき俺に怒鳴ったくせに……」
「あれは……ごめん、酔っ払ってた。1ヶ月誘いを断られた続けたんだから、少しは許せよ」
「あほか」
思わず笑みが漏れる。
「佳人、俺、全然急いでないから。佳人の気持ちも疑ってない」
東はきっぱりとそう言った。その表情にはなんの曇りもなかった。
「俺たちには時間が必要なんだよ、たっぷりの時間が。だからゆっくり、ゆっくりやり直そう」
この距離も、今の自分たちには必要だと思っていいんだろうか?
「佳人、好きだ。何回拒絶されて吐かれて、殴られてもこの気持ちは変わらないから」
「それは、やばいだろ」
そう笑うと、東も「やばいか」と笑った。
「ゆっくりやろう。消してしまった〝あの日〟をやり直そう、2人で、一緒に」
その言葉に佳人は頷いた。
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