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【二部】第0 雨季への記憶

シトシトと雨が今日も降っている。 雨季の時期に入ってから見慣れた景色を、レフラは今日も大きな窓ガラス越しに眺めていた。 その後ろで髪を束ねてくれているギガイの指先が、時々首筋を掠めていくのがこそばゆい。 「こら、大人しくしていろ」 その感触に思わず身を捩れば、小さく笑ったギガイの声が聞こえてきた。 「すみません」 ギガイの柔らかな声につられて、小さく謝ったレフラの唇からもフフッと笑いがこぼれ落ちた。 こそばゆさを堪えるためにも周りの様子に集中する。 目を閉じれば聞こえるのは雨の音と、ギガイの動きに伴ったわずかな布擦れの音だけだった。 あれだけ来るのが不安だった、雨季の時期の中にいる。 その音や静寂が今までの色々な事を思い出させてくるようだった。 一族を守るために黒族へ胎を差し出す供物の存在、御饌として育てられた日々だった。 一族を守る矜持で全ての不安を覆い隠して嫁いだ日。この地での始まりは、身体を臣下の者に暴かれて隷属の身だと教え込まされる淫辱からだった。 その後もギガイの不興を買っては、手酷く抱かれる日々は辛くて、いくつも涙を流した事を覚えている。 子を成すためだけの存在だから。 仕方がないという諦めと。 これで一族を守れるのだという矜持と。 役目を果たしてその為だけに存在した自分から、本当の自分を生きたいという願いを持って過ごしていた。 そんな中でも、交わる時以外は誰よりもレフラへ優しくしてくれたこの主に、レフラの心は少しずつ絆されていった状態だった。 「ほら、できたぞ」 過去の記憶に引き戻されていたレフラがハッと我に返る。 「どうした?」 他の誰かに向けられたことを1度も聞いた事がない、優しい声が聞こえてきた。 「いえ、何でもありません」 ギガイの方へ振り返り首をフルフルと降って見せれば、蜂蜜色の瞳が優しくレフラへ向いていた。その目が心配げに見つめてくる。 「何か堪えているように見えるぞ」 スッと伸びてきたギガイの腕がレフラを抱き寄せ身体をさする。その手の温もりと感触がレフラの心を暖めていく。 淫辱の日々にあった時でも、温もりや誰よりも優しさをくれた腕だった。 (ずっと独りだったから、一生誰かの温もりや愛しみなんて得られるはずがないと思っていたから……) そんな中で唯一無二だと大切にされたのだ。御饌として子を成すまでの期間だけだと分かっていても、どうして好きにならずにいられただろう。 (だから終わる日までのことだとしても、ギガイ様のそばに居られる日々を幸せに過ごしていこうと思ってて……) そうやって覚悟を決めたはずなのに、覚悟の裏で戦く心をギガイに暴かれてしまったのだ。 子を成すための存在だと思っていたあの頃に、終わりを迎える日が辛いと泣いてしまった自分だった。そのことはいま思い出してもあまりに情けなくて仕方がない。 でもあの日の自分はそんな自分を見たギガイの心まで、傷を負うとは思わなかった。 扱いを間違えたのだと言っていた。 唯一無二の存在として、誰よりも守り愛しみたかったと言っていた。 そして傷付き苦しむレフラへギガイは、自分の命と引き換えに自由をやる、と言ったのだ。 殺して自由を得ろと言われる中、握り込まされた短剣を振り払うことも許されなかった。 そのままギガイ自身へ短剣が刺さっていく。そんな光景が脳裏に蘇ってレフラの身体が小さく震える。 「ギガイ様…傷は、痛くないですか…?」 「…? あぁ、大丈夫だがどうした?」 今でも掌に感じた肉を断つ剣の感触を覚えている。 その感触を上書きするように、レフラがギガイの首筋へ力を込めてしがみついた。 「雨季が、来るのが怖かったんです……」 脈絡のない会話だが、何も言わずにギガイは聞いてくれている。 「……」 「ギガイ様と一緒に居られる時間は有限なのに、その時間が意味なく消費されていくようで」 「そうか…」 「それなのに、雨季が終わってしまったら、また終わりが一歩近付くようで…だから、雨季が来るのが不安でした…」 「…悪かった、全て私の誤りがーーーー」 「違うんです」 苦悩の色が混じった声で、詫びようとしてくれたギガイの唇を掌で覆う。 「言ったでしょ。許しますって、2人でもう一度やり直しましょうって…だから責めているわけじゃないんです」 唇を覆った掌をそのままギガイの頬から眦へ滑らせていく。そしてそのままソッと両手でギガイの頭を抱え込んだ。 「ただ、幸せだな…って。あんなに不安だった雨季の中で、こうやって穏やかに一緒にいられるなんて思わなかったんです」 息を鋭く吸った気配が腕の中であっただけで、ギガイが動く様子はない。 「失わなくて良かったって……ギガイ様がここにいてくださって、良かったって…思うんです……」 目の奥がじわりと熱くなって、声に湿り気が帯びていく。 「だから、ギガイ様も自分を大切にしてください……自分からケガをするようなマネはしないで…ギガイ様が私が傷付くのを嫌がるように、私もギガイ様が傷付くことが辛いのだと分かってください……」 腕の中で身動いだギガイを解放すれば、気まずそうな表情を浮かべたギガイがレフラを下から見上げてくる。 「ずっとそばにいて下さるのでしょ?」 約束をしてくれたはずなのだ。だから自分を損なうようなマネはやめて欲しかった。 「あぁ、そうだな…悪かった、気をつけよう……」 詫びる言葉はまだ馴染みがないのだろう。どこか辿々しく感じるその言葉にフフッとレフラの笑みがこぼれた。

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