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第76 雨季の終わり 8

これまでの人生で想像さえしたことがないような、こんなに幸せな日々。 分不相応なこんな日々が、ずっと続くわけはない、というような思いと。いまがこんなに幸せ過ぎるなら、この先に反動が来てしまうのではないか、といった思いだった。 湧き上がるイヤな予感にゾクッとして、身体へ一瞬震えが走った。レフラは慌てて首を振って、そんな感情を振り払う。 「どうした?」 すぐに気が付いたギガイが、レフラの顔を覗き込んできた。 「……幸せ過ぎて怖いな、と思って……」 何でもない、と言ったところで、どうせ見逃してはくれないのだ。レフラは素直にそう言って、ギガイへ向かって苦笑を浮かべた。 「大丈夫だ。お前が不安に思うようなことは何もない。私がそばにいるからな」 だけど返ってきた言葉は、あまりにこの主らしい言葉で、思わずレフラは吹き出してしまった。 「このままお前は笑っていろ」 頬に添えられた掌に頬を擦り寄せれば、湧き上がっていた言いようのない不安感が消えていく。レフラは「はい」と大きく頷いた。 書庫の中でそれぞれ気になる本に手を伸ばす。 レフラが選んだのは、最近黒族内で流行っているとエルフィルから教えてもらった物語だ。 (こんな娯楽のための本まであるなんて、やっぱり黒族は凄いな……) 跳び族の中では本はだいぶ高価で、いまギガイが手に持つ薬草に関する本のように、受け継いでいく必要がある知識を綴ったものばかりだった。 ペラ、ペラと本を捲っていたレフラの手がフッと止まる。視線を上げた先でギガイが眉をしかめながら、レフラの手元の本を見ていた。 「……どうしたんですか?」 ハッキリと興味を持って本を選んだレフラとは違って、ギガイは適当に目についた本を手に取った、という雰囲気だった。 書庫のエリアとは垂れ布で区切られたスペースは、外の景色を見渡せる大きな窓の傍に、カウチが備え付けられている。 雨音を聞きながら、ギガイの身体にもたれ掛かってページを捲っていたレフラが、そんなギガイに目を瞬かせた。 「……なぜ、この男はそこで諦めるんだ?」 「えっ?」 「この男の行動だ。なぜそこで諦めるのか、意味が分からん」 ギガイがレフラの開いたページを指差してくる。 物語は、幼い頃から遊び相手かつ護衛として仕えていた従者と、その部族の族長の娘とのお話だった。互いに好意を抱きながらも立場の差による邪魔が入って、最終的に互いを想いながらも別々な道を歩むらしい。 そんな悲恋のお話の主人公を、ギガイの指は指していた。 「……身分差でしょうか?」 「だが、この女を命懸けで欲しいのだろう? それなら、この男がこの一族の主となれば良い」 サラッと何てことを言っているのだろう。 レフラはギガイの言葉に、思わず呆気にとられてしまう。言った人が人なら、ただの冗談として受け止めていた。でもギガイのことなのだから、本気で言っているとしか思えなかった。 「他にも、まだ遣りようはいくらでもある。最も手に入れにくい心を手に入れとおきながら、なぜここで相手を諦めるんだ? 」 本当に意味が分からない。ギガイの声音からは、そう思っていることがとても伝わってくる。 「諦めれば、そこで終わりだろ。命懸けで思うのならば、命が終える時に諦めれば良いだろう?」 「……っぷッ、あははは……ッ!」 眉を寄せるギガイに、また笑い出してしまう。 「そうですね、ただそうなると、武勇伝のお話ばかりで、世の中から、恋物語のお話がなくなっちゃいそうですね」 日頃書類を確認している時よりも、ずっと深刻そうな顔をして、そんなことを言ってくるギガイがおかしくて仕方がなかった。

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