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第3話

 餞別(せんべつ)だと義父の置いていった酒を舐めながら、朝倉は寄ってきた猫に手を伸ばす。喉を鳴らしながら目を細める様を、ぼんやりと眺めやる。 「お前は強いな」  明らかに己よりも、確実に。  この猫が子を産むのは一度や二度ではない。しかも、全てが順調に育つわけでもなく。いつの間にか姿の見えなくなったチビも、無残な変わり果てた姿になったヤツも見た。気ままに朝倉の元へ顔を出してはいるが、基本的に野良の環境は厳しい。そして育っても巣立ちをさせるため、手塩にかけて育てた子を怒って追い出す。この猫は総てを一匹でやり切る。  自分はというと、減る子猫に憂いて数える手を止めただけ。どころか、たった一人離れてしまった相手を想い燻り続けている。  むしろこの猫にかかってしまえば、自分も手のかかる子猫の一匹なのかもしれないと行き着いて、撫でる手が止まる。 「なぁー」  のんびりと続きを催促され、再開する。  もうすぐ四十になるというのに、いい年して猫にも義父にも心配をかけてばかりだ。  苦笑まじりに湯呑みを空けて、口に放り込んだ馴染む甘さ。  遅れて、見開く眼。  ――最後に吸ったのは、いつだ?  観葉植物があったために灰を捨てられなかったからか、猫や未成年が居座っていたために煙を上げられなかったか。思い起こせば、煙突の中のような職場での喫煙もいつが最後か。未練がましく使っていた、あの男のライターの重さの感覚はどこへやった?  知らぬ間に、変えられている。 「にゃ」  顔を上げたと思ったら、朝倉の横をすり抜けていくしなやかな身体。 「こンの野郎ッ! すっぽかしやがって!! こんな所に隠れてやがったか!」 「ッ! なんであんたこんなとこにッ?」  猫の背を庭に見送りつつ、響いた覚えのないダミ声に飛ばしていた思考を戻す。 「つけて来たに決まってンだろ! 欲しくもないガキだったのを生かしてやってンだ! 使えないヤツだと思ってたが、本当にクズだな!」  続いて、アパートが揺れるほどの振動と大声、くぐもったうめきが薄い壁の向こうから放たれた。  喧嘩、にしては妙だ。他の部屋からの物音かと訝しがるが、基本的に住人はならず者ばかりで騒がないことを思い出して打ち消す。また己の仕事柄怨みつらみも買いやすいが、その関係でもなさそうだ。 「お前が客取らなかったせいで大損だ! あの女も当てにしてた金(はい)らずに野垂れ死ンぞ、わかってンのかクソがッ!」  飛び込んできた内容に朝倉は表情を曇らせた。 「あの女って、あんたの嫁だろ。俺はもう客は取らない! 他の方法を探す」  激高した男とは対照的な、若い静かな声。親子喧嘩にしては物騒な内容。  戸にもたれた朝倉はそのまま宙を仰ぐ。  トキの母親は末期の患者だ。入院治療費云々に前に、飲んだくれ博打好きの父親からは収入を見込めず学生の息子に身体を売れと迫る始末。  胸クソの悪さを噛みしめながら、廊下へ通じる扉に手を掛ける。ここで出て行っても何も解決になりもしないクセにと、己を嘲笑いつつ。 「うっせぇ」  対面したトキの父親は、資料よりもだいぶ老けて見えた。 「誰だキサマッ!」  カチ。  ふー……。  クソな世界の味を噛みしめる。  装飾少ないはずのライターはこんなにも重かったか。吸い込む苦さはこんなにも身体を蝕むものだったか。  ――生きてる、(あかし)ってか?  再確認させられるクソッタレな世界。  壁に背を預けて転がってるトキは顔を腫らして微動だにせず、朝倉を注視している。大方朝倉が在宅であることに、出てきたことに驚愕しているのだろう。 「ぁあ? てめぇこそ何様だ」  腹から出す声は自然と低く喉を震わす。  普段は猫背で視線を合わせる会話を、あえて目だけで見下す。引き結んだ口角と寄せた眉間は、さらに強面を強調するだろう。 「チョロチョロうるせェ」  これではおやっさんの柄の悪さを(たしな)めないと頭の片端で苦笑する。同時に、こんなのが親父を夫を名乗るれるものかと冷えていく臓物。 「どこのスジモンだ」  羅列していく物騒な組の名に、徐々に顔色をなくす相手。この集団は揃って朝倉が首を縦に振るわけのない誘いを、飽きもせず勤しんでいる暇人共だ。少しくらい迷惑料として名を借りるくらいは大目に見てもらう。 「小物風情ががなるな見苦しい。要らねぇなら、置いて失せろ」  ぞんざいに出口を顎で示す。 「ハッ、誰が、食い扶持を簡単に手放――」  急速に凍っていく空気を肌で感じているだろう。口の威勢はいいが、引き気味の腰を蹴飛ばす。直後、喉元を踏んづけて掛けた体重。耳障りな声を漏らしつつ、力なくもがく姿を眼下に捉える。鷲掴んだ、無精ひげの蔓延る(おとがい)。  ジジジ。 「……っひ、ひぃぃ」  見開いた充血した男の眼球スレスレに火種を。  すべてを一瞬で。 「……ゎ、わかっ、た……あんなモン、くれて、やる……っ!」 「――失せろ。」  端的に言葉を紡いで、()()うの(てい)で去っていく背を無感情に眺める。残された、普段よりもちいさく映るトキを一瞥して部屋に引っ込む。  親子喧嘩に他人が水を差すべきではなかった、かもしれない。判断材料の少ない未成年の世界で、彼ながらに出した決断に水を差す行為だっただろう。しかしながら、同時にコレは親子問題の範疇を超えているのも、学生であるトキの手に余るものであるのも事実。ちっぽけな自己嫌悪よりも、なによりもこの場合トキの基本的な権利が第一か。  とって返し覗いた冷凍庫は、残念ながら冷却枕や保冷剤だなんて気の利いたものはない。 「冷やしておけ」  暗に脹れている頬を示して、仕方なしに冷えた缶ビールを放り投げる。  ないよりはマシだ。  いつの間にか置かれた三毛猫の土産のネズミを視界に入れつつ、もうこの茶髪の通い猫は来ないだろうなと紫煙を細く立ち上らせる。 「……お?」  胡坐(あぐら)をかいて口の中で久方ぶりの煙を転がしていれば、軽い衝撃に素直に驚く。 「クソオッサン」  肩越しに拝む、明るい色の髪。あたたかい体温に相手と背合わせであることを知らされる。 「前、向いてろよ。話したことないはずなのに、ドコまで知ってやがる」 「――ああ」  ちゃぷ。  時々持ち替える缶の水音と煙をふかす吐息。互いだけに伝わる振動。 「お袋はもう、長くない」  絞り出された、掠れ声。そのひとことから、伝わるトキの覚悟。  健康体である自分と違う近しい者の病気の受け入れ、死期の近さ、費用、精神面、己の今後、高校生の身でどこまで考えただろう。この薄い肩に背に圧し掛かったものは大きい。それに加え、あの父親。生活のため治療費のため、不本意ながら客を取らされ身を売るにはあまりにも若く残酷だ。 「全部が、イヤだった。疲れた」  ため息まじりの重さは、トキと同年代の者が吐き出せるものではない。  誰にも相談できなかったのか。両親は頼りにならず。その中で唯一のよりどころだった母方の祖母は、数か月前に息を引き取ったばかり。葬式はおろか供養もできているか怪しいところだ。トキを学校に行かせ、ちいさな身体ながらあの父親と対峙していた無理も祟ったのかもしれない。 「ばあさん死んで、どうしようもねぇなってしたら、あいつが来いって」  示された、申し訳ていどのベランダの先に三毛のしっぽが揺らぐ。  人間並みに聡い猫に妙に納得する。それで朝倉の部屋に上がったのか。 「なあ。一緒になるって、ナニ? 奴隷? あんたんとこも?」  ああ、それで指輪を気にしていたのか。  今までの引っ掛かりを解く。いつぞやトキが食いついた、慰謝料だの養育費に結びつくのか。  身近な両親を見て、疑問を深めたのだろう。 「俺のところは、人様に言えるほど誇れるモンじゃない。ただ――」  短くなった火種を揉み消して、新たな煙を上げる。 「ただ、そうだな。ちっぽけながらも、しあわせだったな」 「ふーん。でも別れたんだ?」 「いや。連れてかれた」 「……え、?」  背が軽くなる。 「カミサマとやらに」  あの日。  笑ってしまうほど些細なつまらない言い合いで別れて、ヤツの好きな銘酒片手に帰る最中(さなか)入った緊急の連絡。運び込まれた先では近親者以外は立ち入り禁止を命じられ、傍に寄るどころか同じ室内にすら入れてもらえず。一秒が何分にも何時間にも錯覚させられる、焦燥だけが積み上がっていく生き地獄。後から駆けつけたおやっさんの計らいで、冷たくなったヤツへの対面をやっと許された。  同性の婚姻が認められていない国だからこその対応だろう。現在では性に囚われない考えの条例が徐々にできはじめている自治体もあるが。医療者からしたら、患者の知人という括りのただの他人だ。治療や方針に対する口をはさむ権利なぞ、何もない。  聞いた話では、病院へ到着時には微かにしゃべったとのことだった。忘れていたかの様に渡された自分の好む洋菓子店のひしゃげた箱に、互いの思考回路の単純さを思い知った。 「コイツは、あいつと俺だけのものであって、法的な効果は全くない」  触れるリング。 「だから、書面上も、夫婦の繋がりも、男同士だった俺には解らない」  まあ、男女だから、同性だからと、変わらない部分もあるだろう。それこそ十組あれば十通りの関係があるように。 「偉そうなことは言えないが、どれにも正解はない」  再び熱の戻った背は無言。  同性愛者だと知っても尚、離れないぬくもりに説明できない感謝。それこそ触れるのもおこがましいという人種がいるのも、これまた事実。 「お前の親父にはああ言ったが、好きにしていいぞ。もう俺に関わらなくても問題ない」  やはり、無言。 「お袋さんのことは手を打ってある」  そして、トキのこともしかるべき措置を取った。 「あの男に怯えて暮らす必要はない。堂々としていろ」  本来のあるべき姿で。  ただこれは世間一般的な対応であって、家庭崩壊へ向かうシナリオだ。傍から見れば成立していたのか怪しい家族であるが、当人たちの認識は違うかもしれない。それこそそれぞれの家庭があるのだ。もしもトキが朝倉の介入に異論を唱えるのならば、他の方法を考える余地がある。これはある意味、朝倉の自己満足と捉えられても間違いはない。 「……なんだ」  肩に重みを感じて視線をやれば、のけぞってこちらを向いた端正な顔と出会う。 「それって、大人として子供の俺を守ってくれるってこと?」 「お前自分をちっせぇ子供だと思ってるのか? 俺はやさしくない。手取り足取りだなんて生易しくないぞ」 「知ってる」  じっと見つめられて、早々に白旗を上げる。普段から目を逸らされる部類の強面は、いがみ合い以外で視線を合わせるのにはとんと弱い自覚がある。 「……教えられたんだよ。お前に。だから一方的じゃない。昔話のツルか何かだと思えばいい」 「恩返し?」 「トラップは仕込んでないから安心しろ」  玉手箱も、ましてや金銀財宝もない。  口の減らないトキのことだ、地蔵と言い出しそうなのを不審に思いながらも目を細める。 「くれるモンはもらうけど、独りよがりな善意はいらない。――あんたが欲しい」 「ぁあ? 親父とケンカする盾が欲しいなら俺じゃなく、てめぇに力と頭をつけろ」  付け焼き刃は所詮、一時しのぎで長期的な効力はない。 「そうだけど、違う」 「俺はお前の親鳥になるつもりはない」  保護者が欲しい性格でもないだろう。むしろトキは自立を望んでいる印象がある。  いつの間にか消えた背中のぬくもりが、目の前に移動している。 「あの人たちは関係ない」  じゃあ、何だ。  二人の間に、紫煙がゆらめく。 「恋人に死なれた哀れな男を拾い上げようってか? 傷のなめ合いなんざ真っ平ゴメンだ、ほっとけ」  八つ当たりだと知っている。トキに向ける言葉ではない。  苦く上げた口角に皮肉を乗せて、まっすぐ向けられる視線から逸らす。シッシと手を振って、この話はなかったことにする。 「逃げるなよ朝倉。――何が怖い?」  違和感を覚えつつ、それが己の名前であることにぼんやりと気づく。出会ってからしばらく経つがはじめてだ。  怖い、か。  無気力でありながら忙殺された日常の中に、忘れ去ったはずの誓いの存在を確認させられた。同時に与り知らぬところでトキという新たな存在を刻まれ、今まで必死に築いてきた年輪のような硬い鎧を簡単に剥ぎ取られていく。もともと人間関係は希薄だったのだ、ここまで入り込んでくる人間自体いなかったのもある。  どちらにしろトキのように己と周囲を受け止めて、先を見据えるほど前向きにはできていない。 「俺はお前のように強くない」  煙の先を見上げる。  今さらながら、猫とトキに進むことを教えられた。自分もいつまでも、故人にしがみ付いていては迷惑なだけだ。承知している。  いい年をした大人の男が、たった一人の男子高生に浸食されていく。そして、今までの己というものを、壊される恐怖。 「前途ある若者はこんな年寄りに関わらなくていい」  泣いたらいいのか、笑ったらいいのかすらも、解らない。  フィルターを弄ぶ手を引かれる。上げる視線。 「でも、あんたがいい」  馬鹿の一つ覚えのように似た言葉を繰り返すトキを見据えて、朝倉は渋面を作る。 「……聞くが、どこがいいんだ」  こんな面白味もないオヤジに。 「強面なのに、すっげぇ適当で社会適合できてないところ。強いクセに文句言いつつも手助けするところ。でも――」  不意に切られた言葉に、抱えた頭を上げる。 「でも、実はすっげぇヨワムシなところ」  それは、恋人との思い出を振り切れず引き摺ったままだからか。お守りのようにいつまでも嵌めている指の輪っかのせいか。恋人の姿が見えなくなってから吸い出した、好きでもない煙草をしゃぶっているためか。  日常のふと、した瞬間に『居ない』ことに気づかされる、ポッカリと穴の開いたような虚無感。そしてその気づきによって、忙殺される日々の『忘れていた』ことを知らしめられる罪悪感。  誰にも責められたことはない。経緯(いきさつ)を知っているのは義父だけだった。(なじ)られないということは、裏返せば許しを得ることのない見えないゴール。自らの思考の悪循環に行き場を失い、積み上げる(とが)。いつしか己の心の弱さから、生きながらも死んでいた。 「……っ、」  いいオトナが、ひと回り以上離れたコドモに見透かされる。 「前は絶対に話さなかった、昔の男を話したのは何でだよ」  それはトキがしつこいから。 「知って欲しいからだろ。自分の中で整理できなきゃ、他人には言えないだろ」  たぶん俺もそう、と続けられる。  それは、あいつとのことを過去のものとして、処理したのか。そう、見えるのか。  強い視線から逃れるように、視界に入れた鈍色に光る手元。ついであたたかさに包まれる。 「ただの口からの出まかせだったのは知ってる。でも、うれしかった『頼りにしてる』って。居てもいいって」  たった一言だけで、単純な。  金を作る商品としか認識されていない人間関係に疲れた高校生には、それほどまでに重要な言葉だったか。 「俺、自分で言うのもなんだけどいい物件だぜ? 昔の男も知ってる懐の深さ。金はないけど、オッサンより充分若いし、オッサンより社会適応できてる」  アピール部分を指折り、ウインクしてみせる。 「それにあんた、本当の自殺志願者だったら、真綿で首を絞めるような方法選ぶか。さっさと死ねる方法考えるだろ。でも、あんたは苦しんで野垂れ死ぬのを待ってる」  声音を改め、ヒタリと澄んだ眼に射貫かれる。 「しっかり見ててやるよ。あんたが、もがきながら、くたばるところ。――安心しろ」  息が、止まる。  二人しか居ない空間に、訪れる静寂。 「……お前は」  思いのほか無様に掠れた声を切る。  祖母に続き、拾うであろう母の骨の後に、自分にまで施しをしようというのか。見かけによらず、とんだお人好しだ。 「――仕方ねぇな。」  蓋をして見ないふりをし続けていたモノを、こじ開けられ晒された。これ以上、暴かれるものはないだろう。  苦く笑って、揉み消す火種。  代わりに含む甘さ。  しびれる苦味から、つつむような甘味を。 「お……ンむ?」  掴まれ引かれる胸元に、次いで塞がれる唇。  奪われ、奪い返す、甘味。 「……ハッ、……んぅ……」  短い攻防の果てに押し戻され、舌と共に我が物顔で口腔内を蹂躙される。歯を小突く不意打ちの硬い振動が、一瞬の理性を引き戻す。  ガリッ。 「……ッ!」  散らばった意識に、注ぎ込まれる濃度を増す柑橘味。弱い粘膜を侵して、鉄臭さを刻み込まれ酔わされる。 「……意外と上手い、な。クソ、ガキ……」 「……オッサンも、な」 「クソッ」  互いに息を荒くして悪態をつく。いつの間にか溶けきった甘味。  口角を舐め上げる、紅さが滲む舌から目を離せない。 「いい身体してんじゃん」 「身体が資本なんでな」  勝手に剥いたシャツを放り投げた男は、珍しそうに人の腹筋を撫で回す。そんな朝倉の前にも若干薄くはあるが、それなりに均一の取れた筋肉の付き方をしている。 「……なんだ、俺が下か」 「入れる方しか経験ない」 「じゃあ抱かんでもいいだろ。こんなオッサン」  皮肉交じりに詰れば、キョトンと首を傾げられる。 「あんた抱かれる方だろ? もしくは抱かせてやるって言われて、結局――ぶ、」 「この、ませガキ!」

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