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第12話 転機

弘海を襲った男の頭を、史は気づいたら殴っていた。ぐちゃぐちゃの泣き顔で、さらに殴ろうとした史を弘海が止めた。 気を失った男の後始末は、理玖が引き受けてくれた。珍しくも襲われかけた弘海は、史を連れて、引き留める客には目もくれず店を走り出た。 雨が降っていた。 アパートまで一度も止まることなく走り続け、ドアを空けた時には、二人ともびしょ濡れだった。 そのままバスルームに飛び込んで、服も脱がずにシャワーの湯に打たれながら抱き合い、何度も貪るようなキスをした。 シャワーに紛れて、史の目から涙が溢れた。 水浸しで重くなった服をやっとの思いで脱ぎ捨て、ベッドのシーツが濡れるのも構わず、二人はそのまま身体を重ねた。 「もう・・・誰にも・・弘海を触らせたくない」 史は、弘海に抱かれながら、そう言った。 この世界ではよくあることだったが、史にとっては耐えられない出来事だった。史は弘海の胸にしがみついて、喉の奥から絞り出すような声を出した。 「・・・あんなの見たくない」 「俺は大丈夫だから・・・いつものことだ」 「嫌だ・・耐えられない・・・っ」 「それは、俺も一緒だ」 「もう・・・どうしたらいいか・・わかんないよっ・・・」 引き返せないほど、弘海は史を愛していた。 「離れたくない」 史は弘海の腕の中で眠りに落ちる寸前、そう言った。 昼間のカフェに不似合いな理玖と弘海は、普通の中年の男二人の振りをして、それぞれカフェオレとコーヒーを頼んだ。 「理玖・・・本気?」 「本気よ。悪い話じゃないでしょ」 「・・・本当にあたしで務まんのかしら・・・」 「従業員はみんな残るって言ってるし、あんたならいいって言ってんのよ」 「それはありがたいけど・・・」 「あたしも弘海なら安心して田舎に帰れるわ」 「お母さん、そうとう悪いの?」 「結構な年だからね。あたし長男だし」 「それは心配よね・・・」 理玖は、「Lick」のママを辞めると言った。そして弘海に店を引き継いでほしいと頼んだ。田舎の母親が体調を崩し入院したという。持病もあり、つい先日余命宣告もされたが何とか持ち直した。だからといって放ってもおけないしね、と理玖は言った。理玖は、母子家庭で育った。 「あんたもいい歳だし、そろそろママとして店のひとつも持ちなさい。・・・史も、きっと支えてくれるわよ」 「・・・・・」 史の名前が出て、弘海は押し黙った。 「弘海。あんた、本気で史、引き留めなさい」 「理玖・・・」 「あの子はそれを待ってるのよ。あんたに行くなって言ってほしいのよ」 「そう・・・なのかな」 「強がってものわかりのいい振りしてたら、本当にいなくなっちゃうわよ」 「・・・・」 あの雨の夜、伊坂が連れてきた初老の男は、酒の相手をする史に急に頭を下げて詫びた。 よく話を聞けば、かつて史を店で押し倒し、当時の会社を辞める原因になった取引先の若社長の、父親だった。 その初老の男は、野瀬と名乗った。伊坂の働く野瀬コーポレーションの会長だった。 彼は、無能な長男にほとほと困り果て仕方なく子会社を持たせ社長にしたが、それすらうまく回せず、手に余るのだと、愚痴をこぼした。 後になって息子の部下から、「Lick」で史を押し倒し、同席した部下達に店から連れ出されたと聞いたという。そのころまだ史は、客として来ていた。 『もう、済んだことですから。お気になさらず』 笑顔でそう言った史に、そういうわけにはいかん、と野瀬は言った。 『君は、○○社にいたっていうじゃないか』 『よく・・・ご存じで・・・』 『うちの馬鹿がよくわからんクレームを入れたらしいな・・・それが原因で辞めたのか?』 『いいえ、クレームが来たのは確かですが・・・辞めたのは自分の意志です』 『○○社には世話になっていて、あそこの常務とはよく飲む仲だ。実は少し、この件について話を聞いてな。君はたいそう優秀だったと聞いたぞ。辞められたのは痛手だとこぼしていたが・・・』 『・・・恐れ入ります。ですが、本当に済んだことですので、もう・・・』 『では、うちの馬鹿息子とは関係なく、話そう。三澤くん、と言ったね。君、うちに来ないか?』 『え・・・?』 野瀬は、○○社に勤めていた史のことを聞き、確認するためわざわざ「Lick」までやってきた。そして実際話してみて、その聡明さに触れ、ヘッドハンティングすることに決めたという。 それ以降も、野瀬は何度も店に顔を出し、直接、史に交渉し続けた。 史は、弘海に、それをなかなか言い出せずにいたが、ある日、理玖を呼び出し、全てを話した。 「史があんたに直接言い出せなかったこと、まだ怒ってんの?」 「それはもう怒ってないわよ。言いづらいのは・・・わかるし」 「史はさ、あんたが言う、いつかマトモな仕事に就いてほしいっていうのを気にしてんのよ。でも、本心は側に居たいんでしょうね」 「・・・・・」 「弘海はどうなの」 「え?」 「史を、日当たりのいい元の場所に戻したいのか、苦労させても自分の側に置いておきたいのか。どっちなの」 「・・・・・」 弘海は再び言葉に詰まった。 耐えられない、と言った史の顔が思い出される。 この仕事をすると決めて生きてきた弘海と、ひょんなことで足を踏み入れてしまった史。 簡単に割り切れると思っていたことが、史に出会ってから、変わってしまった。ドライで、後腐れがなくて、その場限りの関係ばかり築いてきた弘海は、史との出会いを通して、ろくな恋をしてこなかったのだと思い知らされることになった。 もう、史のいない生活を想像することが出来なくなっていた。 そして、傷つけあう関係になりたくないと思った矢先、飛び込んできたヘッドハンティングの話。 理玖は、ため息をついて目の前の弘海の額を、指先で押さえて言った。 「あんたの覚悟次第でしょ?そろそろ潮時よ」

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