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第2話

 散乱する金属片、嗅いだことがない匂い。その真ん中で死にかけていた生き物。  生き物は地球という青い星からきたらしい。弱々しく微笑んだ地球人は帰りたい、と呟いた。  凍てつく星は地球人が生き延びるには過酷な環境だった。何しろ地球人にとって必要な酸素が少なすぎた。医者に連れていったが、どうしようもできない。途方に暮れる自分に、彼は微笑んでみせた。  死にかけている地球人のそばに寄り添い、彼の話を聞いてやる。彼の心は豊かだった。彼の心に触れるたびに、切なくて苦しくなる。  できるのなら、帰してやりたい。青く美しい星に。  美しい星で待っている彼の家族の元に。 「兄ちゃん、遅刻するよ!」 「いたい……」  体の上に乗った温もりが暴れる。薄く目を開けるとだぼだぼの学ランを着た少年が、眉をきりりとあげて見下ろしている。 「大学生だからって、サボっていいわけじゃないだろ」 「その通りです……はい……」  体を起こそうとすると、少年はベッドから降りた。 「光希、襟曲がってるよ」 「え、あ、ほんとだ。ありがとう」  元気はつらつ。弾けんばかりの活発さ。  短く切られた頑固そうな黒髪がちょっと跳ねているのはご愛嬌。くりくりした黒目が寝起きの悪い兄を見て呆れている。 「今日の朝飯、俺も手伝ったんだよ!」  それはちゃんと起きなければ。顔を洗ってリビングに行くと台所で栗色のポーニーテールが揺れていた。 「おはよう、御影」 「おはよう母さん」  食卓について手を合わせる。  ばたばたしていた光希が後ろに立つ。 「今日は俺が結んであげる!」  朝から講義がある日の日課だった。光希は伸ばしている金髪を結びたがる。 「今日も兄ちゃんの髪は綺麗ですねえ」  可愛い。反抗期になって冷たくされたらものすごく落ち込んでしまう自信がある。 「はい、できた!」  嬉しそうにした光希はいつも通りハーフアップにしてくれたようだった。回を重ねるごとに上手になるのが楽しいようで、編み込みを覚えたいと言い始めている。そろそろ切ろうかと思っていたが、光希のためにもう少し伸ばしておこう。 「この前女子の髪も結んであげたんだよ」  にこにこしている弟が愛らしくて、思わず手を伸ばす。頭を撫でてやると嬉しそうに目を細めている。これもいつまで続くのだろうか。すぐに兄になど興味がなくなってしまうかもしれない。 「そろそろ家を出ないと遅刻するよ」  「あっ、そうだった。行ってきます!」 「行ってらっしゃい。気をつけて」 「兄ちゃんも遅刻すんなよ」  慌ただしく鞄を背負って家を出ていく弟を見送る。まだ学ランに着られている背中を見送る。 「人間っていうのは成長が早いなあ」 「そうね。でもそれが人間よ」  母親がエプロンを外しながら、寂しそうに笑った。  たしかに、やたらと視線を感じていた。電車の中でも、歩いている時も。  しかし、学校に着いてから友人に言われるまで、何も気にしていなかったのだ。 「朝倉、今日はずいぶん可愛らしいものつけてるな」 「ん?」 「……気がついてないのか? かわいいシュシュついてるぞ」 「えっ」  やられた。光希の仕業だ。 「弟のいたずらかな……」  手で触れてみるとたしかにふわふわしたものがついている。 「朝倉の弟おもしろいな。写真撮ってやるよ」  シャッター音と共に目の前にひょっこり現れた男にわずかに目を見開いた。 「朝倉、弟いるの?」 「え、あ、いるよ……おはよう、香坂」 「おはよ」  切れ長の目がすっと細められる。今にも舌打ちしそうな雰囲気を醸し出している。ずいぶん不機嫌だ。朝が苦手なのだろうか。。 「弟ね……」  よく見れば顔にはっきりと理解不能と書いてある。苦笑して誤魔化したが、見守っていた友人は不思議そうに御影と香坂の顔を見比べている。 「おまえら、仲よかったっけ」 「いや」 「これから仲良くなる予定」  否定しようとした香坂の言葉を遮る。  上目で睨みつけてくる香坂に笑いかける。 「俺は仲良くなりたい」  長い間の後、香坂は深くため息を吐く。  本気で嫌だと言われたら、引くつもりだった。しかし、その必要はないようだ。香坂だってその気だったのだろう。昨夜で終わりにしたければ、今話しかける必要はないだろう。あまりに不可解すぎて声をかけてしまったのかもしれないが。  香坂伊織という男は、大変女にモテる男だった。  顔がいい。声がいい。優しい。気が利く。セックスが上手い。大事にされていると思ってしまう子もいるらしい。香坂伊織に抱かれたがる女性は学内外問わずいるらしい。そして乞われるままに抱くし、気に入りの女性を抱こうとするらしい。貞操観念は皆無だが、女性たちはそれでいいらしい。おかげで、香坂伊織の周りには常に女がいた。  今だって図書館で壁ドンをしながら女の子を口説いていた。  母親が持っている少女漫画で見たような展開だ。女の子もまんざらでもない顔をしている。あの顔に見下ろされたら、乙女になってしまうのもしかたがないだろう。  遠くから見守っていると女の子が香坂に抱きついた。今夜のお相手はあの子らしい。  女の子を抱きしめた香坂がちらりと御影を見る。  何を言うでもなく、じっと見つめてくる。香坂の視線の意味がわからないまま、軽く手を振ってみる。ちょっと拗ねた顔をした男は、女の子の背中をぽんぽんと軽く叩いている。まるで幼稚園児をあやすような手つきだ。今晩抱く男の手ではない。それを不思議に思っていると、女の子から離れた香坂がまっすぐこちらにやってくる。 「見てないで助けろよ」 「……? 今晩のお相手じゃないのか」 「俺だってセックスしたくない日だってある」  女の子に聞こえないように落とした声が耳元でぶつくさ文句を言っている。 「朝倉、俺の代わりにあいつを抱いてやってくれよ」 「やだよ。気のない人間を抱くほど暇じゃない」 「えぇ……俺はそんなお前と飲みに行きたい……」  その言葉を聞いて少し驚いた。そんなほいほいつるんでくれるとは思っていなかったのだ。仲良くなりたいと言ったらため息を吐かれたのだし。その上、香坂伊織を高嶺の花だと思っていた節がある。噂によれば、香坂は男友達がいないらしい。たしかに、女が途切れない時点で男の敵のような男だ。彼女をとられたという話まで聞く。 「俺は空いてるけど」 「女を抱く暇はないのに、俺と飲む暇はあるの? 面白い男だね」  にやっと笑った香坂は御影の肩をぽんぽんと叩くと、女の子の元に戻っていった。  香坂を少しだけ見守ると、目当ての本を探すことに専念する。夜までまだ時間はある。この後講義はない。適当なカフェで借りた本を読んで時間を潰そう。  目当てのものを見つけるまでに、手の中には予定外の本が数冊あった。  女の子との話が終わった香坂が擦り寄ってくる。手の中の本を覗き込むと、本棚から抜き取った一冊押しつけてくる。大人しく借りることにする。  香坂は当然のようにカフェまでついてきたが、全く言葉を発さなかった。御影もそれにならって沈黙を保った。  本を一冊読み終え、窓の外を見やる。冬はやはり日が短い。すっかり漆黒に包まれていた。  御影が無意識に伝票を確認すると、香坂が外に出る支度を始めた。香坂は御影が借りた本の中の一冊を読んでいた。 「それ、面白かった?」 「俺の趣味ではないね」 「ふぅん」  香坂に一冊押しつけられたお返しをする時の参考にしようと決めた。  居酒屋で適当な酒で乾杯し、適当なつまみを食べつつ腹を満たす。騒がしい居酒屋でビールを煽っている端正な顔を見つめる。口についた泡を舌で舐めとる仕草を見て、なんとなく女性を抱いているところを想像してしまった。 「俺の顔になんかついてる?」 「いや? 綺麗な顔がついてるよ」 「朝倉、俺の顔好きだよな」 「否定しないよ」  ちょっとやっとではない。物凄く好きだ。女なら速攻で落とそうとするだろう。いや、香坂でなければ男でもそうしていただろう。しかし、そんな即物的な欲でこの男を抱きたいとは思わなかった。大好きな顔であるのと同時に、彼は。 「この後、お時間は?」 「大丈夫だよ。どこか素敵なところに連れて行ってくれるのかな」 「いや、この前のバーだけど」 「素敵じゃん」  香坂がちょっと笑って足をぶつけてくる。御影も笑ってその足を受け止めた。  居酒屋を出た時にはすでに、ふたりともかなり酔いが回っていた。美味しい酒を手軽に飲める時代に感謝する。香坂が御影の手をとって歩き出す。冬のせいだけでない、体温の低さに感傷に浸りそうになる。  昨夜と同じ席に座り、美味しい酒を飲む。  会話が弾んだところで、香坂が薄い鞄の中から煙草を取り出した。伺いを立てるように首を傾げる。御影が頷くとマスターに灰皿をひとつ頼んだ。  睫毛を伏せて、煙草を咥える。香坂の手の中にあるライターが懐かしくて、思わず手を伸ばすと、素直に手渡される。香坂が息を吸うのに合わせて火をつける。独特の金属音に思わず頬が緩んだ。薄い唇が最初の紫煙を吐き出す。 「吸うんだね」 「ああ……楽しいと吸いたくなる」  悪戯っぽく微笑まれた目に胸が苦しくなる。なんて殺し文句だろう。酔った頭がさらに茹っていく。香坂は微笑んだまま煙草を吸っている。 「あんたの話、聞きたい」  何も面白い話なんてないのに、香坂は聞きたがる。でも、香坂がそういうのなら。  酔った頭はぐるぐると回り、酒で潤した口からはとりとめもない言葉の羅列。  香坂が最後の一本を吸い始めたあたりから、記憶はぷっつりと途切れていた。  

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