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第3話
優しくて寂しい感情が流れてくる。
悲しむのに疲れてしまったから、人に興味がないふりをして距離をとる。ひとりは好きじゃないのにひとりになりたがる。
その優しさごと抱きしめてあげたくて、手を伸ばした。そっと閉じ込められているそれを全部全部包み込んで撫でたかった。
赴くままに抱き込んだものはあたたかい。そしてやわらかい。でもなんか硬い。
頬を擽ぐる柔らかくてさらさらしたもの、甘いシャンプーの匂い。
腕の中にいる一番あたたかいところを探して鼻を埋める。深呼吸をして肺いっぱいに吸い込む。ああ、いい匂いだなあ。
ふわふわした思いで抱きしめていると、突如としてそれらはいっぺんに消えた。
突然あたたかいものを取り上げられて不満が募る。誰だろうか、自分から奪ったのは。
寒い気がしてあたたかいものをもう一度手繰り寄せようと手を伸ばす。
「さむいのはやだ……」
「やだじゃない。起きろ」
「……?」
目を開けるとぼやぼやした視界の中に人がいた。寝癖でもさもさの香坂だ。
「あー」
「あーじゃない。今日の講義は?」
「今何時……」
「十一時半」
もう昼近くだと言うのか。
やたら凝った内装のここは見覚えがない。確実に俺の家ではない。香坂の家だろうかとも思ったが、それにしては乙女向けだ。
ここはもしかしてラブホか。
寝惚けた頭はだんだんと昨夜のことを思い出し始める。バーを出た記憶がすっかりさっぱりない。これは相当やらかしたであろう。のろのろとベッドに正座をして、香坂に深々と頭を下げた。
「昨夜は多大なるご迷惑をおかけしました……」
香坂は土下座をしそうな御影を見てちょっと笑った。
「あんたが俺に迷惑をかけたとしても、俺にはその記憶が綺麗さっぱりない。残念だが」
「?」
「昨日はお互い飲みすぎたな」
御影はちっとも覚えていないが、香坂も強かに酔っていたようだ。それならよいのだが。
「一緒に寝てくれと言われたことぐらいしか覚えていないな」
「それ、全部覚えているってことだろ……」
香坂はにやにやしたままベッドを降りると、どこかへ消えていった。御影は未だ怠い体をベッドに横たえる。ベッドから丸見えのガラス張りのシャワー室の中で香坂が頭から水を浴びている。御影にはよくわからないフェチズムだが、恋人のシャワーシーンを見たい輩もいるらしい。
髪を洗っているのをぼんやりしながら見ていた。俯いたまま、水流に任せて泡を流そうとしている。御影が好きな俳優の写真集にあるような、現実味のないワンカットのようだ。泡をあらかた流し終えた香坂が御影を見た。まるで事後のような気怠げな薄い背のライン。薄く笑った口元がゆっくり、御影にわかるように『えっち』と形をつくる。
朝だからしかたがない。今のは香坂が悪い。
ちょっとだけ反応したものを隠すように膝を抱える。薄く微笑んだままの朝倉が、体を洗い終わるまでの短い間、ずっとその体勢でいた。
御影の心中を知ってか知らずか、香坂はさくっと帰っていった。学校に行く気はないらしい。去り際に「朝から元気だな」と揶揄われたが、おまえのせいだとは言いづらかった。返事になっていないような唸り声をあげると、香坂は帰っていた。
口にしていたらどうなっていたのだろうか、とぼんやり思った。心地よい関係が崩れるのは嫌だったが、悪戯心がじわじわと苛んだ。
スマホを引き寄せて、トークアプリを開いた。なんの脈絡もなく、おまえのせいだよ、と送信するとすぐに既読がついた。
御影がのろのろと冷たいシャワーを浴びて、冷えた体のまま帰宅しても、香坂から返信がくることはなかった。
それから一週間、香坂とは顔を合わせていない。御影は今まで通り、好きな顔を追いかける日々を送っていたし、香坂のことなんてちょっとしか考えていない。
そもそも、元々全く違う生活圏だったのだから、偶然すれ違う確率の方が少ない。しかたがない。いくらなんでも素直に言いすぎた。香坂なら笑って許してくれると思ったのが悪かった。既読はばっちりついているので、悪戯心を後悔するにも既に遅い。
読み終わった本を図書室に返し、次の本を選ぶべく本の海を彷徨う。あちらの棚、こちらの棚へとふらふらしているとぐいっと腕を引かれた。
驚く暇もなく、眼前には好きな顔にやや下から睨まれている。香坂を腕の中に囲むような体勢。一瞬過ぎる記憶は一週間前の香坂だ。つまり、所謂壁ドンというやつなのではないか。香坂の視線に宿る怒り。訳も分からず冷や汗の気配がする。
「あんた、なんのつもりだ」
「なにって……」
「あからさまに避けられたら、気にする」
香坂の言葉の意味がわからず、困惑する。御影がいつ香坂を避けたというのだろうか。顔を合わせなかったのは偶然なのではなかったか。
香坂の腕が腰に回る。図らずしも、引き寄せられる。香坂の吐息が耳にかかる。擽ったさに身を捩りたくなるが、香坂の腕がそれを許さない。
「人の心が読めるだろ」
心臓が冷えた心地がした。既読がついても返信がこなかった時より心臓に悪い。
御影の星は心と心で通じる。口に出す言葉はほとんど使わなかった。地球は声が多い。心も、口から出る声も。
地球では心の声ではなくて口から発する言葉を使うと知った。
地球では心の声が聞ける人間が好かれないと知った。
だから心の声を聞く耳を塞いだ。
知られてはいけないと、今の今まで細心の注意を払ってきたというのに。
人の口には戸は立てられない。御影は香坂が軽々しく人の秘密を喋るとは思っていないが、はっきりと断言するほど時を過ごしていない。ほかの誰かに知られてしまったら今の生活を失ってしまう。家族も、学校も、友人も全部。
「無意識に俺を避けるほど、俺に欲情したか」
「え、いや、ちが……」
弱々しく否定するも、香坂は離れてくれない。
「……嫌われたのかと思った」
「ちょっと引いたけど」
「引いてるじゃん……」
「そんなことで嫌いになるほど、やわじゃない」
声は不機嫌そうだが、抱きしめてくる力は緩まることはない。低めの体温に身を委ねそうになる。
「香坂も、俺と仲良くなりと思ってるってことでいい……?」
伸ばしかけた手を止めて、おずおずと尋ねる。香坂が耳元で笑ってさらに抱きついてくる。
「そうじゃなかったら、わざわざ待ち伏せなんてしないよ」
嫌われていなかったことへの安心感で、留めていた手を香坂の背に回す。体温をじんわりと感じていると香坂ゆっくりと離れていく。
「飲みにいくか?」
「しばらく酒はいらないよ……」
「……俺の家に来る?」
悪戯を思いついた、そんな顔で香坂が笑う。御影は間髪入れずに頷いた。香坂がプライベードゾーンに入れてくれることが嬉しくてたまらなかった。
香坂らしいと言ってしまえば、それまでなのだが、香坂の家は本当に飾り気がない。
やたらと大きい液晶、ゲーム用のPC、ダブルベッド、それからふかふかのソファ。ローテーブルの上に放り出されたノートPC。
壁一面を埋める古い本。その昔、御影もみたことがあるような本ばかりだった。新しい生活をするために全て倉庫に預けてあるが。
「適当に座って。なんか作る」
「香坂って料理するんだ……」
失敬な、とでもいうように軽く睨まれる。黒いシャツとセーターの袖を一緒に捲り上げている香坂の横に立つ。
「俺も手伝うよ」
「あんたこそ料理できるんだ?」
「母親の手伝いはそこそこしてるしね」
「……ふーん」
どうやら、家族の話はよろしくないらしい。弟がいると知った時も訝しげにしていたし。
手際よくトマトを切り始めた香坂にそっと話しかける。
「俺が人の心読めるの、人に言わないでくれる……?」
「言うつもりはない」
「ありがとう」
「……家族のためか」
「約束したからね」
香坂がちらっと御影の顔をみてため息を吐いた。つい一週間前みてしまった、香坂の優しさを思い出す。優しさは時に己の弱さになる。わざわざ弱さをつくっている御影が理解できないのだろう。
御影はあの日、放っておけなかった。この国のどこにでもいるかわいそうなこどものひとりを、見て見ぬ振りができなかった。それを後悔した日はない。これからも絶対に。
ミートソーススパゲッティとサラダを食べ終えると、香坂は床に座って黙々と課題に取り掛かり始めた。手持ち無沙汰気味に皿を洗い終えると、今日借りた本を読み始めた。急ぐレポートもない。
しばらくすると、我に返ったように香坂が顔をあげる。
「皿洗い、ありがとう」
「ご飯作ってくれたから、気にしないで」
どうやら集中すると周りが見えなくなるらしい。
課題はある程度終えたようで、大きい液晶に映画を流し始める。
「最近流行りのヒーロー映画だ」
香坂が隣に座ってソファに沈み込む。今日は映画をみる日になったようだ。
「俺に付き合わなくてもいい」
案に読書に励んでも気にしないと言われている。お言葉に甘えようかとも思ったが、一緒に映画を観ることにする。
一度席を外した香坂がつまみと缶ビールを片手に戻ってくる。
酒はしばらくはいらないと言ったのに。
「飲むだろ?」
そう言われたら飲むしかないじゃないか。
缶ビールをみっつぐらい開けたところで香坂が眠気に負けた。映画は終盤に差し掛かり、ヒーローの逆転勝ち。伸し掛かる薄い温もりと薄い体。どうしてこうなっているかはわからない。好きな顔が肩に乗っているどきどきをしばらく味わっていたが、香坂の寝息につられて眠くなっていく。すがりつくように薄い体を抱いて目を瞑った。寂しい優しさを抱きしめていると、忘れかけていた遠い星の温度を思い出す。
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