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第4話
香坂の家に入り浸るようになった早二週間。年も暮れようとしている頃。冬休みに入ってからも、香坂とはほぼ毎日のように顔を合わせていた。
久しぶりに家族揃っての朝食を摂っていると、光希がじとりと御影を睨む。
「お母さん、兄ちゃんが不良になった」
「なんだそれは」
「だって、最近帰ってくるのが遅いし、朝帰りばっかりだ」
どこで朝帰りなんて言葉を覚えたというのだ。まだ中学一年生だというのに。
「帰るのが遅くなることも、友達の家に泊まることも、母さんには言ってある」
弁解はしてみるが、光希は睨むのをやめない。
「彼女?」
「違うなあ」
「違うのかあ」
母親はにこにこ笑っているばかりで、御影と光希の話に口を挟むことはない。
「兄ちゃんだって友達ぐらいできます」
「ふーん」
信じていない顔で目玉焼きの黄身を破っている。まだ幼い輪郭が可愛らしくて思わず指で突いてしまう。さらに機嫌が悪くなることなどわかっているのに。
「大晦日はおうちにいてね」
「そうする」
香坂も大晦日を過ごす相手ぐらいいるだろう。ほぼ毎日香坂の家にいても迷惑ではないらしいが。最近は女の影すら見えない。あんなに性欲に忠実な男が、いきなり女断ちしたら、むしろ不健康なのではないだろうか。
わざわざ人が多い時期に映画館に行こうと言い出したのは香坂の方だった。
上映時間までの空いた時間を適当なカフェで潰していると、自然と年末年始の話になった。
「大晦日と元旦は家族と過ごすつもりなんだけど」
香坂は予想に反して、興味なさげに頷いた。難しい顔をされる心の準備ができていただけに驚いた。御影は自分が間抜けな顔をしている自覚はあったが、それがどうしてなのかわからない。香坂はそんな御影など知らんふりでコーヒーを飲んでいる。
世辞でもいいから、一緒に過ごしてくれとでも言われたいのだろうか。
そんなことはないが、この違和感はなんだろうか。
「二日とかに一緒に初詣行く?」
「行かない」
「人混み嫌いなの」
「好きではないね」
それならしかたがない。初詣は光希と行こう。
映画館はほぼ満席だった。香坂はひとりでLサイズのポップコーンとLサイズのコーラを抱えて座っている。ひとりでポップコーンを食べきれる自信がないので、香坂からちょっともらうことにした。
映画は最近流行りの恋愛小説の実写版だった。御影が偶然最近読んだのは香坂のおかげでもあった。なんでも、女に押しつけられたとかなんとか。ちょうど読む本を切らしていたところに、本棚の肥やしになっていたのを見つけた。映画化するのを思い出して言ってみれば「行くぞ」と言われたわけである。
薄暗い中で、口寂しくなって香坂のポップコーンに手を伸ばす。とん、と香坂の手とぶつかる。香坂も同じタイミングでポップコーンをつまもうとしていたらしい。ごめん、と心の中で謝る。ポップコーンをとって手を引こうとすると、やんわりと手の甲が包まれる。手をとられて肘掛に誘導されそうになる。慌ててポップコーンを手放す様はクレーンゲーム。
御影の手はすっかり肘掛と香坂の手に挟まれる。そんなに御影にポップコーンを食べられたくないのだろうか。反対の手でポップコーンを取るのもなんだか面倒だ。ポップコーンは諦めて、大人しく映画に集中することにした。
御影の手は、上映が終わるまで、香坂に握られたままだった。
場内が明るくなってから、香坂は不思議そうな顔をして御影の手を離した。
「悪い、なんか握ってた」
どうやら無自覚だったらしい。
「いや、気にしてないけど。ポップコーンそんなにすきなんだ」
きょとん、と御影を見ている様子から、香坂はポップコーンがとても好きなわけではないらしい。
「家でくっついてるからかな……」
これが女なら今すぐホテル行きだな、とは思うが、相手は香坂だ。まるっきりかわいさのない顔で言いのけている。
別れ際、改札でじゃあまた明日、と手を振られる。また明日も会えることに何故か安心して手を振り返すと、香坂はちょっと笑って背を向ける。かわいいが、何で笑ったのだろうか。もしかして御影がほっとしてしまったことがバレたのだろうか。香坂には読心力はなかったはずだが。
また明日、また明日を繰り返すうちにあっという間に年末が訪れる。光希がテレビを見ながらげらげら笑っているのを見ながら、秘蔵の酒を飲んでいた。母親もこたつでみかんを向いてにこにこしている。
明日は何時に初詣に行こうか、と考えているうちに年が明けていた。
家族三人で初詣に行った帰り、光希は偶然会った同級生と遊びに行くことになった。母親はママ友の家に挨拶に行くらしい。年明け早々、元気な人たちである。家でのんびりするつもりだった御影も、なんとなく香坂の家に足が向いていた。
香坂のアパートの前に着いてから、やっと家主がいない可能性を考えた。通りすがりの和菓子屋の団子をふたりで食べようと思って買ったのだが。
インターホンを鳴らすが、音沙汰ない。試しにドアノブを回してみたら、すんなりドアが開いてしまう。不用心だな、と思いつつちょっとだけ開けて玄関を覗く。いつもの香坂の冬靴と、見慣れない女物のブーツ。全てを察して、己のタイミングが悪さを呪ってドアを閉めようとした。
「あさくら」
熱を隠しきれていない、今までセックスしてました、みたいな声。
全裸で現れた香坂は気怠そうに髪をかきあげた。お元気な息子さんにはコンドームがついたままだし、後ろで女の甘ったるい声が香坂の名を呼んでいる。
大好きな俳優のちょっとセクシーな写真ならたくさん見てきた。だが、それより生々しくて、もっとやらしい。
「ごめん、また来……」
「いい、今帰すから」
「は?」
「それ、俺と食べるために買ったんだろ」
御影が手に持っているビニール袋を指差す。その通りなのだが、そうではない。女がいるなら退散するに決まっているだろう。
「置いてくから、彼女と食べて」
事後に団子を食べるのもおかしいな、と思いつつも気の利いた言葉が思い浮かばない。
フローリングに団子を置いて帰ろうとすると、香坂にじろりと睨まれる。ピシリと固っている間に香坂がなあ、と女性に話しかけている。
やがて、文句を言いながらも服を着た女性が居間から出てくると、ブーツを履いて帰って行った。その間、御影のことはちらりとも見なかった。
「それ、どうするの」
未だ元気なものを指して言えば、興味が失せたように「適当に抜く」と返ってきた。
おざなりに外されたコンドームは弧を描いてゴミ箱に吸い込まれていく。
落とされた掛け布団。ベッドの上にはローションのボトルとピンクのローター。情事の気配が残るベッドに全裸のまま腰掛けた香坂は、おもむろに自分のものを扱き始める。御影の存在など気にもしていないようだ。
困った御影はローテーブルの上に団子を置いて、電気ケトルで湯を沸かし始める。その間に置いていた緑茶のパックを探しに台所に向かう。
居間に戻ってきたちょうどその時に、快楽を押し殺したような呻き声が香坂の喉の奥から漏れる。もうしばらく台所にいればよかった。今日はずっとタイミングが悪い日なのかもしれない。
気怠げにベッドに横たわっている香坂の顔が、一瞬の快楽で柔らかくなっている。そういう顔もいいなあ、と思いつつ、男女の営みを邪魔したことを謝罪する。
「邪魔してごめん」
「団子の方が食べたくなった」
とんだ女泣かせというか、花より団子とはこのことか、思うことは多々あった。心の中でツッコミを入れなければ、平常心を保つのが難しい。腹に飛んでいる白濁から目を逸らすためにも。
「……あの女は逆ナンしてきたからヤっただけで、彼女とかじゃない」
「溜まってたとか」
「まあ、それはあるけど」
遠回しに気にするなと言われている。団子を広げると、すぐに手が伸びてきてみたらし団子を攫って行く。
「今日泊まって行くか?」
緑茶を啜る御影のかたわらで、団子を食べ終わった香坂が服を着ながら聞いてくる。家に帰ればおせち料理が待っているが、このまま香坂の家でだらだらするのもありなのかもしれない。
そこではたと閃いた。
「香坂、うち来る?」
「はぁ?」
珍しく素っ頓狂な声が返ってきて思わず笑ってしまった。
それでもこれ以上ない素敵なアイディアだと思ったのだ。
香坂を連れて家に帰ると、母親があらあらと目をまんまるにした。明日は雷でも落ちるからしら、とぶつぶつ言っている。
「香坂くん香坂くん、嫌いな食べ物はあるかしら?」
「ないです……」
「うそ、こいつ魚食べられないよ」
香坂にキッと睨まれるが、気にしない。読心したとかではなく、肉ばっかり食べているから、魚は嫌いなのかと聞いたことがある。どうしても食べられないと難しい顔で教えてくれた。嫌いではないが、諸事情のせいで辛いものが食べられないらしい。尻に爆弾でも抱えているのだろうかと心配している。
テンションの上がった母親はやいのやいのと香坂に世話を焼いている。香坂はソファに座らされて借りてきた猫のようだ。こんなに愛想よく笑っている香坂は初めて見た。
友達の家から帰ってきた光希は胡散臭そうに香坂を見ている。コントローラーを握りしめたまま、顔だけは香坂を向いている。娘に相応しい男かどうか見極めようとする父親のような、厳しい眼差しに笑いそうになる。液晶画面の中では、操作キャラがボコボコされているが、いいのだろうか。
「そのゲーム、俺も好き」
光希の視線に気がついた香坂が隣に座る。
光希が香坂から目を離さずにコントローラーを渡している。父親の眼差しから不審者を見る目つきに変わる。
夕食の手伝いをしていると、光希が歓声をあげた。まだまろい頬を上気させ、きらきらした目で香坂を見上げている。ヒーローでも見るみたいに。大人の男に懐かない光希にしてはとても珍しいことだった。
夕食の後もふたりはゲームをする約束をしたらしい。今度は俺が勝つ! と意気込んでいる。
食卓についた香坂は、おせち料理を前にそわそわしている。うま煮を食べて顔を見て微笑ましく思っていると足を蹴られた。いつもはこっそり顔を見ているのに、今日に限って見つかってしまうとは。
おせちを食べ終わると、香坂を先に風呂に送り出した。それまで、光希の対戦相手を預かったのは御影だった。
「あのひとは、にいちゃんの大事?」
「うん」
「そっか。にいちゃんに友達ができてよかった」
「……友達はいたよ……」
勝者は光希。敗者は御影と相成った。
「俺がいるから、友達連れてこないんだと思ってたから」
痛いところを突かれて、思わず言葉が詰まる。光希は父親らしき男のせいで、自分より体が大きい男を恐ていた。高校生ともなれば、まだ小学生低学年からしたら大人の男と変わりない。みかげの同級生たちは、だいたい図体が大きい輩ばかりだった。
「光希のためだったかもしれないけど、光希のせいじゃないから」
「そっかぁ」
ちょっと嬉しそうに距離を詰めてくる光希が可愛くて、思わず抱きしめる。
嫌がる光希の頭をもみくしゃにしてじゃれていると香坂が風呂から帰ってきた。
光希がちょっと恥ずかしそうに香坂にコントローラーを渡している。短時間で香坂に懐いた光希は、御影とじゃれているところを香坂に見られたのが恥ずかしかったらしい。
御影が風呂から上がると、光希が飛び跳ねているところだった。
「にいちゃん聞いて! 一回勝てたんだよ!」
嬉しそうに笑う光希の頭を撫でて、風呂に促す。お子様は寝る時間だ。
「光希と遊んでくれてありがとう」
「いや……」
薄茶の瞳がちらりと御影の濡れたままの髪を見る。香坂の家ではきちんと乾かしてから出ていくようにしているから、珍しかったのだろう。二人が心配だったとは言いづらい。
「なんで、突然俺に家族を紹介する気になった?」
「嫌がらせかな」
「……正直に言え」
「俺の家族を知ってもらいたかった」
友達を家に連れてきたことがない御影にとって、香坂がどんなに大きな存在になりつつあるのか、香坂は知る由もない。御影も言葉にするつもりがなかった。
「あんたが、その、地球出身じゃないこと、知ってるのか」
言葉を選びながら、おずおずと。珍しくちゃんと質問をしてくるのは新鮮だ。香坂は読心術がないはずなのに、御影の心を察するから。
「はっきり言ったことはないけど」
家族になった時に、御影は母親と光希に何もしなかった。暗示をかけてもよかったのに、受け入れてくれた二人に甘えて、人間のように成長している。光希が大きくなるまでは、この生活を守らないといけないのだ。
風呂から上がり、まだゲームをしたいと駄々を捏ねる光希を寝かしつけて、香坂と自室に篭る。
滅多に出されない客用の布団を敷いた自室を見て、年甲斐もなくわくわくしている自分がいる。
「枕投げとかする?」
「いつもしないだろ……」
お泊まり会の定番はあっさり却下される。香坂がふぅと深呼吸をして布団に転がる。
なんでも飄々とこなす男だと思っていたが、随分気を張っていたらしい。御影も自分で連れてきたくせに、少し緊張していた。
「連れてきて悪かった」
「……いい家族だな」
香坂は布団に顔を埋めてしまうと、しばらく動かなかった。いつもより寝つくのが早い。相当お疲れだったようだ。電気を消すと御影も布団に入った。明日はきっと光希が朝早くから起こしにくるのだろう。
布団が温まって来る頃、突然ベッドが自分ではない重みで沈んだ。
低い体温が冷たい空気と一緒に控えめに入ってくる。袖が捲れて露わになった素肌に冷たい足が当たって思わず呻いた。
「わるい」
御影の横にすっぽり収まった香坂が足を冷たいぴとりと当ててくる。わるいと言った口はどこに行ったのだろうか。明らかに暖を取ろうとしている。
放っておいたら落ちそうで、思わず引き寄せる。驚かせてしまったようで、一瞬硬直したが、だんだんと緩んでいく。いつもは香坂の広いベッドで寝ているから、こんなにくっついて寝るのは初めてのことだ。男ふたりでシングルベッドに寝るのは厳しいと思っていたが、これも良いのかもしれない。
久しぶりにこどもと遊んだ、と呟いた香坂の声が優しすぎて、御影は夢の中で少しだけ泣いた。
ぬるりと頬に触れた柔らかいもの。思い当たるのは舌だが、それよりもっと弾力と太さがある。そもそも御影を舐めるような存在と寝た覚えがない。
触手もこんな感じなんだろうか、と思いつつ目を覚ました。最初に見えたのは香坂の安らかな寝顔。次に御影の首に巻きついている紫の触手の束。
寝惚けた頭が急激に覚醒していく。
「こうさか……?」
恐る恐る布団を捲ってみると、そこに広がるはめくるめく触手の世界。
ひぇぇと思わず出た声で、香坂がぱちりと目を覚ました。
「兄ちゃん? 伊織くん?」
部屋の外で光希が呼んでいる。
一瞬だけ、伊織が誰のことかわからなかった。
自分の隣で触手を垂らして寝ている男の名前だと気がつくのに時間がかかった。光希が部屋の中に入ってきてしまうのはいけない。多感なお年頃に触手は刺激が強すぎる。
触手を踏まないようにベッドから降りる。はみ出している触手を布団の中に押し込んでいると、甘えるように御影の手に絡んでくる。思わずきゅんとしてしまったが、返事がないことに焦れた光希がいつ部屋に入ってくるかわからない。
「みつ、香坂まだ寝てるから、先に行ってて」
「わかった!」
どたばたと一階に降りていく光希の足音を確認し、二度寝を決め込もうとしている香坂の寝顔を覗き込む。
「香坂、起きないとちゅーするぞ」
「……どうして朝から元気なんだ」
唸るように押し出された声。触手はまだ御影に絡まっている。だんだん腕にかけて肘まで這い上がってきている。指で撫でてやると、ぴくんと嬉しそうにうねった。
「光希には伊織って呼ばせてるのか」
「こどもは下の名前で呼びたがる……」
どうやら光希が勝手に呼んでいるだけらしい。
「俺も伊織って呼んでいい?」
「……好きにしろ」
「俺のことも御影って呼んでいいよ」
「……考えておく」
返答は素っ気ないが、触手はするすると甘えるように御影の手に絡んでいる。よく見れば細い触手もあるから、それぞれに役割があるのかもしれない。
「ところでね、伊織くん。触手が出てしまっているよ」
一瞬の間の後、香坂が物凄い勢いで起き上がった。その拍子に触手が布団の端から溢れる。
信じられないものを見る目で己の一部と、未だ御影から離れない触手を交互に見やっている。香坂が深々と布団の中に潜り込むと、はみ出していた触手も一緒にしまわれていった。
「え」
「もういっそ殺してくれ……」
「光希が待ってるから……触手をしまって起きておくれ……」
「死にたい……」
「これでおあいこだろ……」
こんもりしている布団の上でばたばたと腕を叩く。
「兄ちゃん! 伊織くん! 朝ごはんできたよ!」
勢いよく開け放たれた部屋のドア。壊れたロボットのように布団の端をちらりと見て、胸を撫で下ろす。
「今行くから」
「お味噌汁冷めちゃうよ!」
「はいはい」
元気な光希を見て、香坂がため息を吐く。
「朝から元気な兄弟ですね……」
これでは埒が明かない。御影は心を鬼にして、まだ眠たそうな香坂を布団から引きずりだすことにした。
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