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#1-2
ギブアンドテイクって大事だ。
今っぽく言うならWIN-WINか。
半年ほど前に出会ったとき、善 には家が無かった。
とはいえ路上生活者とかそういった類のものではなく、本人の弁を借りるならば「愛を売り歩いて暮らして」いた。
要は疑似恋愛の対価としてあちこちで衣食住を得ていたらしい。相手は女の方がやや多いが男もいたという。毎晩寝床が変わるというのはどんな感覚なのか、俺には想像ができなかった。
俺はといえば、平凡な独身サラリーマンの生活に身を投じていたものの、夜な夜なやっていることは善とそう変わらなかった。つまり、あの手この手で適当な人間を見繕っては身体を重ねていた。(最大の相違点は、相手を男に限定していることだろうか。)
そんな俺が、そんな善を、自宅で囲うに至った経緯について。
振り返れば真っ先に思い出されるのはエレベーター。
その日の俺はいつものように行きつけのバーで出会った男とホテルへ行ったはいいが、結果的には部屋に置き去りにされた。我ながら哀しすぎてちょっと人に言えないが、そもそもは相手の男が悪いのだ。
一回りほど年上の、妻子と別れたばかりだというその男は、脱ぐ前のスーツの内ポケットから錠剤を取り出した。
透明な小袋に入れられた、露骨なピンク色のカプセル剤。
俺にも勧めてきたが、丁重に断った。試したことがないではないが、その類は身体が一切受け付けないのだ。男はあっさり引き下がり、三錠ほどを自分の口に放り込んでから俺を押し倒した。
そう、引き下がったと思ったのだが。
俺の上で腰を振りながら、男がベッドサイドに手を伸ばしたのには気づいたのだが。
開きっぱなしで喘いでいた口を塞がれ、舌先で押し込むように転がされた異物を思わず飲み込んでしまった。
気がついたら俺は嘔吐していた。
シーツも枕もゲロまみれになって、遠のく意識の中、ラブホテルの清掃のバイトを一ヶ月で辞めた友人の話を思い出した。精液とか小便で済むなら全然ましだぜ、ってそいつは顔をしかめていた。
目覚めたとき男の姿は消えていた。辛うじて俺の顔まわりだけ拭いて、ソファへ寝かせてくれたらしい。ベッドの上の惨状は手付かずで、ついでに言うと俺の下半身もぐちゃぐちゃのまま乾いていた。
依然として吐き気があり、それどころか頭痛と目眩もプラスされていて、起き上がるだけで倦怠感に気が遠くなった。控えめに言って最悪だ。
男への呪詛を撒き散らしながら、洗面所で顔だけ洗い、口を濯ぐ。シャワーを浴びる気力はなかった。服が無事だったのが救いだ。
ソファの傍らのローテーブルには三枚の万札。ホテル代にはやや多いそれは、詫びのつもりだろうか。最悪の気分でそれを握りしめ、ズキズキ痛む前頭部に耐えながら部屋を出た。
歪む視界。胸もむかむかする。一刻も早く自宅に帰ることだけを考え足を動かしたが、エレベーターに乗り込んだところで俺は早くも限界を迎えた。
一階を示すボタンを押し、扉が閉まって密室になったところで、壁に凭れたのがいけなかった。足下がふっと浮く感覚に嘔吐感がこみあげ、たまらずその場にうずくまってしまった。
両手で口を押さえたまま動けずにいる俺を乗せて、エレベーターは低い機械音をあげて降下していった。
やがて停止し、短い鐘のような音と共に扉が開いたのはわかったが、立ち上がれない。やべえな、どうしよう……と思ったところで、頭上から素っ頓狂な声が降ってきたのだ。
「うわ、おにーさん、だいじょーぶ?」
てっきり無人のエントランスに着いたものと思っていた俺は、その声に驚いて思わず顔を上げた。
普通こういうホテルであれば、客同士が相乗りにならないようエレベーターに工夫がされていたりするものだが。このホテルではそういった配慮がなされていなかったらしい。どうやら一階に到着する前に、ボタンを押された他の階に停まってしまったようだった。
立っていたのは一組の男女。
その男の方の出で立ちに、俺はいっとき思考を奪われる。
シャンデリア風の安っぽい照明を背に、そこだけ色彩を抜かれたような白い肌、すっと長い首の上に乗った小さな頭。
何より目を引いたのは髪だった。
金色、と呼んでいいのか迷うほど明るく淡く、光を糸にしてよりあわせたような、それを丁寧に束ねて透明な花瓶に生けたような。ゆるやかなウェーブを湛えて肩のあたりまで伸ばされた、繊細で美しい髪だった。
「ねえ、ちょっと。大丈夫? どっか悪いの?」
色素の薄い、陶器のような唇が開いて、同じ声が再び発せられた。俺は我に返って身を固くする。弱っているところを見られた羞恥と、一瞬忘れていた吐き気が一緒くたに襲った。
咄嗟に足に力を入れ立ち上がる。酷い目眩がしてよろめいてしまう。壁に肩がぶつかる間際、伸びてきた手に支えられた。
「急に立つからだよ。じっとしてなって」
親しげな気配すら感じさせる口調で言いながら、金髪の男は俺の隣に立つと、不自然なほど自然な仕草で肩に腕を回してきた。
放っておこうよ、と女の声、エレベーターのボタンが再び押される電子音。でも危ないし、とか何とかかんとか。俯いた俺の視界はぼやけ、聞こえる音も意味を成さない。
ほんの数秒後にはエレベーターの扉が再び開いて、女物のヒールの音が足早に去っていくのだけはわかった。肩を抱かれる温もりは消えていない。ほんの少し高い位置から俺の耳へ、直接言葉が吹き込まれる。
「お兄さん、送ってってあげる。家どこ?」
どこか子供に言い含めるような声音。
浮き世離れした見た目に反して、声はどこにでもいそうな男のそれだった。
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