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#2-2

一通りの処理を終え、給湯室で薄いコーヒーを一杯だけ飲んで、俺は隣のデスクの片付けに取りかかった。 とは言え、俺が少しばかり物置にしていただけなので、片付け自体はすぐに済む。 それよりもデスク自体の煤けた風体の方が気になった。新入社員のデスクがボロボロでは可哀想だ。雑巾と研磨材を持ってきて、ざっと拭きあげてみる。いくらかマシになった。 「橘さん、ちょっと聞きたいんですけどぉ……」 呼ばれて振り向くと、桜井里香(さくらいりか)が立っていた。自分のノートパソコンを抱え、少し前屈みになった姿勢で、不自然な上目遣いをこちらに向けている。 「はい、何でしょう」 返事をすると彼女は今しがた俺が綺麗にしたばかりのデスクにパソコンを置き、ぐっと顔を寄せてきた。桃とメロンを叩き割ったみたいな匂いが鼻につく。 「あのぉ、なんかエクセルおかしくなっちゃってぇ」 エクセルは勝手におかしくならない、おかしくしたのは十中八九お前だ。そう思いながらも黙って画面を覗き込む。 桜井里香は社長とマネージャーの娘で、チーフの妹でもあり、俺よりいくつか年下。 レンタルの方の事務を担当していて、薄汚れた中古PCに触ることはないから、作業着ではなくいつも小綺麗なオフィスカジュアルだ。明るいブラウンに染めたストレートヘアを結わえもせずに垂らし、丸っこいレンズに黒縁の眼鏡を仕事中だけかけている。 「ここなんですけどぉ」 少し舌っ足らずな調子で言いながら、液晶の真ん中あたりを指差す。泥水みたいな色に塗られた長い爪に、オーロラに光る謎の石が散りばめられていた。 調べてみれば、何のことはない。数式に組み込まれたセルの参照先がずれている、ただそれだけのことだった。ちょっと頭を使えばすぐにわかることなのに、桜井里香は「さすが橘さん」と声をオクターブくらい高くした。 彼女が馬鹿なふりをしているだけなのか、それとも本当に馬鹿なのか、未だ判断ができかねている俺は、乾いた愛想笑いを浮かべるばかりだった。 本来であれば桜井里香は、俺と業務上関わることはほとんどない。デスクは斜向かいだが、レンタルとオークション、そもそもチームが違う。 事実、彼女がオークションチームの他のスタッフと会話しているところは滅多に見ない。 では事ある毎に俺に声をかけ、あの桃とメロンの匂いを嗅がせてくるのはなぜか。 鼻にかけるつもりなど皆目ないが、理由は明白だ。 桜井里香が俺に気があるというのはもはや社内では周知の事実で、俺が自分のデスクを持つポジションにいるのも、両親たる社長やマネージャーの計らいだという根拠のない噂まである。 残念ながら俺にとって彼女の好意は、いい迷惑、以外の何物でもなかった。 女は嫌いだ。あれこれ塗りたくられた肌も、虫の羽音みたいな声も、ぐねぐねした身体の線も気持ち悪い。 できれば近寄らないでほしいのだが、俺がゲイであることは隠しているし、そうでなくても社長の娘を邪険にはしづらい。 そんなわけで俺は日々、桜井里香と当たり障りのない会話をし、そこそこのコストが掛けられているであろう彼女の爪や髪や濃い睫毛に、そのつど辟易するのだった。 十時五十分頃、そいつはやってきた。 事務所のドアが控えめにノックされ、チーフが出迎えに立つ。事務スタッフと聞いて勝手に女性をイメージしていたが、入ってきたのはスーツを着込んだ男だった。 一八五はありそうな長身に、ワックスで撫でつけた短めの黒髪、人懐こさを感じさせる温和な顔立ち。 初めは、あれ、と思った。 見覚えのある顔に似ている気がした。 まさかな、と思ったけれど、デスクの島に向かってお辞儀をしたあと上げられた顔は、数年ぶりでも見間違えようのないものだった。 「山瀬(やませ)です。よろしくお願いします」 仕草も声もきびきびとして爽やかで、ビジネスマンのお手本のようだ。俺の知っている学生時代の姿からは想像できないくらい。 活気のない事務所の中で、雑なコラ画像のように浮いていた。一人だけ再度や解像度が違うかのようだ。 チーフに連れられて作業場のほうへも挨拶へ行ったそいつは、戻ってくると俺の隣のデスクについた。そこで初めて俺たちはそばで顔を合わせることとなり。 未だ驚きの抜けていない俺の顔を見るなり、山瀬も気づいたようだった。目と口を大きく丸く開いて、 「橘っ?」 事務所内の全員が振り向くほどの声をあげ、次の瞬間には破顔して俺の両手を握っていた。 「橘だよな? 久しぶり! なんでここにいるんだよ!」 それはこっちの台詞だ、と言いたかったが、注目を集めているのが気になって、俺は代わりに乾いた笑いを漏らした。

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