金曜日の夜だけあって「フランダー」は混んでいた。重い扉を引き店内に足を踏み入れた俺に気づくと、啓吾(けいご)ママはカウンターの向こうから大袈裟に手を振った。 「ちょっと、チイちゃん、久しぶりじゃない。どうしてたのよ」 店内の何人かの視線が集まる。見知った顔もいくつかあって、妙な懐かしさを感じた。一ヶ月ちょっと来ていなかったから、確かに久しぶりだ。 「千亜貴、ここ来れば」 呼ばれて見ると、カウンターの端に座っていたのはルルちゃんだった。 ルルちゃんが空けてくれたスペースに、ボーイの一人が奥から椅子を出してきた。有り難く座らせてもらうことにする。グラスを手にした啓吾ママが目の前に立った。 「例のイケメンとはうまくやってるの？」 「別にうまくも何もねえけど」 「チイちゃんの性欲についてこれる男なんて貴重なんだから、大事にしなきゃダメよお」 唇を尖らせるママからビールを受け取り、ルルちゃんと適当にグラスを合わせてから呷る。 「ちょうど何日か前、チイちゃんの話になったのよ。ね、ルルちゃん」 「そうそう。千亜貴の好きそうな一見さんが来てたから」 ショットグラスを傾けるルルちゃんは、俺よりよっつ年上で、コンビニの雇われ店長をしている。 女児向け玩具のようなあだ名だが、由来は風邪薬のルルＡ錠を常に持ち歩いているからで、本人のルックスは決して可愛らしいものではない。むしろ真逆だ。 こざっぱりした短髪、そこそこ鍛えられた肉体、何より背中に虎でも彫っていそうな強面で、彼の店は万引き等の被害が他店よりも格段に少ないらしい。中身は普通の気さくな兄ちゃんなのだけれど。 二年ほど前に知り合って、三回くらい寝てみたが、お互いちょっと違うなってことで、その後は飲み友達として仲良くやっている。身体の相性はイマイチだったがウマは合うのだ。 何より俺はルルちゃんの顔がめちゃくちゃに好みなので、一緒に飲むと精神的な浄化作用を得られることもあり、結構心を許してしまっている。 「そういやお前、まだあのブラック企業にいんの？」 「別にブラックじゃねえよ。クソなだけで」 「うちの店、今バイト足りねえんだよ。来ねえ？」 「や、俺、接客業ダメなんだって。向いてねえの」 わかるう、と啓吾ママが失礼な笑い方をした。「営業スマイルとかできないでしょ、チイちゃん」 できないね。前の職場では頑張ってたけど、今はもう無理。香水臭い社長令嬢に愛想笑いするだけで引きつっちまうんだから。 バーの体裁をとってはいるが洒落たところの皆無な「フランダー」は、むしろ場末という言葉が似合いの下品な騒々しさに満ちており、しかしその下品さを求めて常に多くの人間が集まっている。 ママはオネエだし客もボーイもほとんどがゲイかバイだが、時々女性客も見かける。ビアンだったり風俗嬢だったりするらしい。ゲイバーとしては比較的、門戸の広い店といえた。 善と出会うきっかけになったあの薬物野郎ともここで知り合ったが、俺がホテルでの出来事をママに報告するとしっかり出禁になった。下品だが治安は割と良いのだ。 そうだ、善のことをママとルルちゃんに話したのもその流れだった。冷えたビールを喉に流し込みながら、そのときのことをぼんやり思い出す。 善の素性だとか詳しい経緯だとかは濁して、酷い目に遭ったが怪我の功名でやたらセックスの巧い男と知り合えた、という話になっている。 優男タイプのイケメンだと言うとママには羨ましがられ、ルルちゃんには驚かれた。俺の好みと全然違っていたから。 「今日、すげえことがあってさ」 ルルちゃんの皿のミックスナッツを勝手につまみながら、大学時代の友人が中途採用で入ってきた、と話すと「へえ、確かにすげーな」とルルちゃんは眉を上げた。ナッツは容認してくれるらしい。優しい。 「あれ、でもお前、大学中退じゃなかったっけ」 「そうだよ。辞めてから一度も連絡とってなかった」 「あれだろ、親にゲイバレして家出してそれっきり、だろ？」 「そうそう。地元にも帰ってねえし、友達、って存在自体がマジ久しぶりだよ」 大学三年の夏休み、俺は両親にゲイだとバレた。 母親に泣かれ父親に殴られ、逃げるように実家を出た。今どき逆に珍しいほどテンプレ展開だった。 それきり何年も両親とはろくに連絡もとっていない。年に何回か母親からメールが来る程度。 「そのトモダチにはカムアしてんの？」 「してない。俺、誰にもしたことねえの」 「あー」 ルルちゃんは頷きながらグラスを傾けた。 カムア、つまりカミングアウトだ、それはリスクばかり大きいというのが俺の持論で、本当なら親にも一生言わないつもりでいた。 同級生に惚れていた高校の頃なんかは、悩んだり葛藤したこともあった。でも大人になってみれば、ゲイ同士のコミュニティとそれ以外を両立させることは不可能じゃなかった。 普段はノンケの奴らと普通に付き合い、恋愛やら性的なあれこれは、もとからゲイだけが集まる場所に属して行えばいい。 実際、大学の頃の俺は、ＳＮＳで知り合った男と交際しながら、山瀬たちとは当たり障りのない学生生活を送っていた。 現在に至っては、そもそもルルちゃんやここらの飲み仲間くらいしか、仕事以外での人付き合いがない。 「今更ノンケとフツーの友達付き合いできんのかよ、お前」 「は、できるだろ。ガキじゃあるまいし」 「どうだか」 「どういう意味だよ」 別にぃ、と笑ってルルちゃんは、ごつい指でカシューナッツをつまみあげた。