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#3-3
きっかり一時間後、山瀬がトイレに立ったところを見逃さず腰をあげた俺を、無駄だとわかっていて引き留める奴はやはりいなかった。有り難いことだ。
お疲れさまでした、と形ばかり愛想笑いをつくり、俺はさっさと宴席をあとにした。
店の外に出ると、ぬるい風に首筋を撫でられる。まだ時間も浅いためだろう、往来は賑やかだった。居酒屋やカラオケの客引きが、なにをそんなに懸命に、というくらい声を張り上げている。
そんな喧噪をさっさとすり抜けてしまおうと思った矢先、
「橘!」
山瀬の声が背中を追ってきた。振り向くと、今しがた俺が出てきた扉の前にその姿があった。
小走りで駆け寄ってくるのを、俺は呆れて見る。
「歓迎会の主役が抜けてくんなよ」
「だって、トイレから戻ったらお前消えてるんだもんよ」
よく見たら靴ではなく、店のサンダルのままだ。席に戻らずそのまま出てきたのだろう。帰らないでくれと縋られるのが面倒だから、いない隙に帰ってしまおうという算段だったのに。
さっさと戻れよ、と言おうとして俺は、山瀬が何か言いたげな顔をしているのに気づいた。
「あのさ……橘、聞きたいんだけど」
「あ? なんだよ」
「えーと、……その……」
言いづらそうに視線を彷徨わせる。何事かと思いながら待っていると、やがて意を決したように、
「お前……、家で待ってる奴でもいんの?」
勢いよくそんなことを言ってきた。
「……は?」
「今日だけじゃなくて、いつも仕事終わるとすぐ帰るし……結婚はしてないっつってたけど、同棲でもしてんのか?」
何を訊かれるのかと思えばそんなこと。俺は思わず肩を竦めた。
そういえば学生時代から山瀬はこうだったかもしれない。
悪く言えばゴシップ好きみたいなところがあって、仲間内で誰が彼女持ちで誰がシングルで、みたいなのを結構、知りたがるほうだった。俺が社会人の男とこっそり付き合っていたとき、恋人がいると感づかれてやたら探りを入れられ、面倒だったことがある。
俺は大きく溜め息をついて答えた。
「いねえよ、そんなん」
「本当か?」
山瀬が疑うような目を向けてくる。
金髪のヒモ野郎が家にいるのは事実だが、善は俺の恋人じゃないし、俺の帰りを嫁のように待っているわけでもないのだから、嘘は言っていないはずだ。「本当だよ」と返すと、「そっか」とひとつ頷いて、それで山瀬は満足したようだった。
「引き留めて悪かったよ。また週明けにな。来週末、約束忘れんなよっ」
そう手を振って、あっさり店の中に戻っていく山瀬を、なんだか俺のほうが拍子抜けして見送る。
周囲の雑踏や客引きの声が急に耳元で蘇って、取り残されたような気分にさせられて、急ぎ踵を返した。駅へ向かう。
おかえり千亜貴、と珍しく玄関まで善が出迎えに来たから、何事かと思えば。
「おなかすいた。なんか作ってよ」
「……俺、今日は飲み会だから、一人でなんか食っとけって言ったよな?」
「食べに行こうと思ってたんだけどさ、さっき起きたんだよ。ぼーっとしてたら千亜貴帰ってきたから」
ねえお願い、とか言いながら、靴を脱いで廊下を進んでいく俺の背中にべったりまとわりついてくる。こいつは別に俺の帰りを待ってなんかいないと思っていたが、今日に関しては違ったわけだ。
「鬱陶しいから離れろ」
「ごはん作ってくれる?」
面倒だったが仕方なく頷いてやり、リビングに荷物を置いてからキッチンへと向かう。あっちで待ってろ、と言ったが善はヒヨコのように後ろをついてきた。
「買い出ししてねえからチャーハンくらいしかできねえぞ」
「うん。千亜貴のチャーハン好き」
「そうかよ」
卵と玉葱とハム。さっさと済ませてシャワーを浴びてしまおうと、手早く冷蔵庫から取り出す。
包丁を手にすると善はやっと離れてくれた。適当に具材を刻む俺の手元を、隣に立ってじっと見つめている。邪魔はしてこないが邪魔だ。ラップでくるんだ白米を冷凍庫から出してレンジへ。
「料理うまいし、掃除もちゃんとしてるし、千亜貴はいい奥さんになれそうだねえ。色欲魔だけど」
寝言を言いながら善は、出来立てのチャーハンを銀のスプーンで頬張った。
作ったらすぐにシャワーに行こうと思っていたはずの俺は、なんとなく一休みしたくなって、善の食事の様子を向かいの椅子で見ていた。
凹凸のはっきりした顔立ちに明るい金髪。慣れたから普段はなにも思わないが、たまに改めて観察してみると、「ガイジン」だなあ、としみじみ思った。
別に、だからどうということもなく、ただ思っただけ。
家に帰るといるガイジンが、俺の作ったチャーハンを嬉しそうに食っている。急に不思議な感じがした。
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