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#4-3

俺が声をかけなくても四時過ぎにルルちゃんは起きてきて、伸びをしながら店内をぐるりと一周した。彼がちょこちょこと売り場を整えるのをレジの中からぼんやり眺めながら、他愛もない話をする。 五時近くなるとちらほらと客が入り始めた。常連ばかりのようでルルちゃんは気さくな感じで会話をしながら、やがて俺に「五時だ。あがっていいぞ」と言った。 俺は事務所でユニフォームを脱ぎ、荷物を持って店内へ戻った。 水のペットボトルを一本持ってきて、ルルちゃんにスキャンしてもらって支払いをし、その場で蓋を開けて飲んだ。冷えた水は俺の頭を冴えさせたが、黒い霞がかかったような澱みは晴らしてくれなかった。 あの少年が買っていったコンドームは、誰がどう使うのだろうか。 そのことが無性に気になって離れなかった。まもなくやってくるはずの始発を待つ駅のホーム。ショルダーバッグの肩紐を握る少年の手の白さを思い出していた。 俯いた顔はよく見えなかったが、肌が白いことはわかった。真っ黒い髪は細くて柔らかそうで、やや長めに揃えられていた。 脳裏に見返す少年の姿が、善と重なる。 今の、ではない。 高校時代の善。 俺たちは同じ高校に通っていた。数年前に男子校から共学になった公立校で、だから男子の割合が多かった。七割ほどだったように思う。 俺は善と言葉を交わしたことはなかった。ただ一方的に知っていた。善を知らない奴はいなかった。 善は一年目の五月に転校してきたのだ。そんなタイミングで転入生なんてあまりに不自然で、すぐに噂まみれになった。 ガイジンらしいぜ、と俺はクラスメイトから聞いた。 日本の名前だし、日本語喋ってるけど、どう見てもガイジンの顔。 近くで見たら、本当に目、青かったよ。 髪は黒いけど、あれたぶん染めてんだぜ。光に当たるとキンキンだもん。 今では名字しか思い出せないクラスメイトの声が、なぜだかひどく鮮明に再生された。 ホームに電車が滑りこんでくる。 乗客もまばらな始発車両に俺は乗り込み、端の席に座った。空はじゅうぶんに明るい。窓ガラス越しの、羽衣に包まれたような太陽を、俺は文字通り上の空で眺めた。 ――あいつホモらしいよ。 下卑た関心を丸出しにした顔でそう耳打ちしてきたのは、また別のクラスメイトだった。 その瞬間の俺は心臓にドライアイスをぶっかけられたみたいな心地だった。あいつ、という三人称が一瞬理解できなくて、俺が吊るしあげられるんだと思った。自分の性的指向は一切誰にも打ち明けたことがなかったのに。 そうだ。あの頃の俺は、内心で常に怯えていた。 ゲイの自分を殺してしまいたいとさえ思っていた。 「四組にさ、なんかヤバそうなグループいんじゃん。太田だっけ? あいつらがさ、しゃぶれよってネタで言ってみたら、マジでしゃぶったんだってさ」 「顔射されて喜んでたって」 「物理の橋本と教材室から出てきたの見たって奴もいるし」 あのクラスメイトは、黙って聞いている俺をどう思ったのだろうか。たぶんどうも思わなかったに違いない。善、あいつだけが“ホモのガイジン”で、それ以外の“俺たち”は全員“フツウ”。 わかりやすい異物を取り除いたら、残るのは全部無害で安全なもの。 噂は暴力の一種だ。どこにでも芽吹き、たんぽぽの綿毛みたいに軽くて無自覚な悪意の種子をばらまく。十五歳、あの瞬間に、俺はそれを学んだ。 思春期の真っ盛りで、猿みたいな性欲と偏見に満ちあふれた彼は、にやにや笑いながら言った。 「確かに女みてーな顔してるしな。やっぱガイジンってそういうの多いのかなあ」 寝室に入ると、閉めたカーテンから漏れてくる薄明かりの中、善が眠っていた。 セミダブルのベッドのきっちり半分をあけ、仰向けで目を閉じていた。 俺はあけられたスペースに腰をおろして、静かな寝息をたてる善の、陶でできた人形のような顔を眺める。 俺と同い年のはずだが、年齢がわかりづらいのはやはり血筋のせいなのだろうか。日本人は欧米では童顔で子供扱いされるというし、それと同じだろう。 起きているときより、こうして目を閉じているほうがいくらか年長に見える。 善はその青い目にあどけない表情をつくって、子供っぽく振る舞うのが上手かった。それはこいつが身につけた、庇護欲だとか母性本能だとかを刺激する処世術のように思えて、俺はどうにも気に入らなかった。 薄い布団をかぶった胸がゆっくりと上下している。寝間着は俺の着古したTシャツ。形のいい唇に、金色の睫毛。 しばらくぼんやりと見つめてから、俺はその隣に寝そべった。 三時間寝たらまた仕事だ。二時間半か。閉じた瞼の裏側にコンドームの箱が浮かぶ。頭まで布団をかぶってそれを追い出そうとする。 布団の中は仄かに甘い善の匂いがした。

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