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#4-6
高校生活三年間を通して、俺は善の顔をまともに正面から見たことが一度だけあった。
一度しかなかった。高二の春だ。放課後のトイレ。校舎の二階の。
俺は弓道部だった。体育館の隣に道場と部室があって、いつもは道場のトイレが使われていたが、修理中か何かで、校舎のを使えと言われた。
袴のまま用を足すには、裾をたくし上げる必要がある。手間ではないのだが、俺はそれがどうしても気恥ずかしかった。
同じ弓道部員なら見られても平気だが、校舎のトイレを使うとなると、ほかの奴が居合わせる可能性がある。それが嫌でわざわざ二階の、人が来なさそうなところまで行った。
狙い通り、俺が用を足し終えるまで、誰も入ってこなかった。
入ってきたのは終わってからだ。
手を洗って出ようとしたところで、廊下を何人かの話し声が近づいてきているのには気づいたが、放課後に連れ立ってトイレに来る奴らがいるとは思わなかった。だから、開けようとしたドアが目の前で開いたのには驚いた。
視界に突然現れたのは、同じ学年の、いわゆる不良グループに属する男子生徒だった。その後ろにも三人、同じような制服の着崩し方をした奴ら。
どれも近寄りたくない、極力避けるべき対象としてインプットされている顔だ。
俺と顔を突き合わせることとなった先頭の男は、「うおっ」と肩を強張らせてから「びびったぁ」と小さく言った。
関わり合いになりたくなくて、俺は同い年相手に軽く会釈のようなものをしながら、足早にその横をすり抜けた。偶然居合わせただけだ、特に危害を受けることもなく、すぐにその場を離れられる、はずだった。
四人のうち一際背の高い奴の後ろに、もう一人、気配薄く立っていたのだ。その存在に気づいていなかった俺は、危うくぶつかりかけてしまい、顔を上げたそいつと目が合った。
それが善だった。
初めて至近距離に立ったその瞬間、俺はその目に海を見た。
髪だけじゃなくて、高校当時の善は、黒縁の眼鏡もかけていた。目を隠すためだったのだろうが、その役割は果たせていなかった。
この青を隠したいならカラコンくらいしないと無理だろう――と俺は、一瞬だけやけに冷静に思った。
ホモのガイジンで、男に迫られたら断らなくて、教師と不倫して前の学校を一ヶ月で退学になった、そう噂されている男子生徒。
遠目に見たことしかなかったその顔は、確かに日本人の平たいつくりとは異なっていて、色も白かった。
身長は俺と同じくらいだが、顔が小さくて首が長い。眼鏡の向こう、影の落ちた目元には、諦めに似た無感情が滲んでいるような気がした。
おい、と唸る声に、はっとする。四人のうちの一人が俺の左肩を軽く小突いた。
「さっさと消えろよ。邪魔すんなら殺すぞ」
そう言ってからそいつは、立ち尽くしている善の腕を掴んでトイレに押し込んだ。善はされるがまま、軽くよろめきながら、今度はほかの奴に手首をとられ引きずられる。
「見てんじゃねーよ、弓道部。混ざりたいのか?」
嘲笑うように言われ、俺は急いでその場を立ち去った。
目を背ける間際、肩越しにこちらを振り向いた善の白い顔が、しばらく頭から離れなかった。
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