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#4 ファントムペイン

「大変だったんだぜ、橘が帰ったあと」 週明けの月曜の昼、ハンバーガーの包み紙を剥きながら山瀬は言った。 「里香さんにお前のこと聞かれまくってさ。彼女いるのかとか、好きなタイプとか、学生時代のこととか」 その声は平淡なものでありつつ、苦手なものに対するときに特有の歪みが感じられた。 里香さん、とは桜井里香だ、もちろん。家族経営で桜井姓が何人もいるから、みんなそう呼ぶ。尖った形に整えられた爪や、冗談みたいな上向きでカールしている睫毛、思い出すだけで俺は辟易してしまう。 山瀬がハンバーガーを一口食べてから「女のひとって、なんでああなんだろうな。俺、昔っから不思議でさ」と言った。 「ほかの奴のプライベートなことなんか、知ってても普通、勝手に言わないだろ。まして本人のいないところでさ。それがなんでわかんないのかなー」 Mサイズのドリンクのカップを片手で持ち上げながら、斜め下あたりに視線を落としている。手が大きいな、と俺は彼の話とはあまり関係のないことを思った。 ポテトを三本ほどまとめて摘みながら「バカだからだろ」と呟く。 「他人のプライベート詮索したり、根も葉もない噂話したり、私バカですよー、って自己申告してるようなもんだよな。信用失くすだけなのにさ、それがわかんねえの、バカだから」 知っていることを言いふらすだけならまだしも、憶測や妄想でものを語ることに疑問すら抱かない人種がいる。それはかなりの数、存在していて、光源に群がってぶつかる虫のようにばちばち不快な音をたてる。 山瀬は苦笑した。 「辛辣だよなあ、橘。変わってねえ」 「だってそうじゃん。今度聞かれたらさ、こう言っといてくれよ」 ハンバーガーのケチャップが指に零れたのを行儀悪く舐めとって、俺は山瀬に軽く笑いかける。 「女性に興味ないらしいから、あいつはやめといたほうがいいですよ、って」 釣られたように山瀬も乾いた笑いを漏らした。 昼時のハンバーガーショップは混み合っていて、俺たちも早々と食事を終えるとすぐに席を立った。 外は立っているだけで汗ばむ陽気。仕事したくねえな、帰ってセックスして寝てえなあと、晴天の下にはふさわしくないことをぼんやり考えながら歩いていると、「橘ってさー」とのんびりした声。 「実際どんな感じの子がタイプなんだよ」 「は?」 「そういや俺、大学の頃も結局、お前の彼女って見たことなかったし」 気になる、と山瀬は目を輝かせていた。 彼女? 見たことない? そりゃそうだ、そんなものは存在していないのだから。俺は面倒の気配に眉を顰める。 「俺の予想ではさー、里香さんよりは長岡さんって感じだろ?」 「お前な……」 「カワイイよな、長岡さん。目立たない感じだけど綺麗な顔してる。メイクばっちりしたら絶対、化ける」 知らねえよ、と一蹴してしまいたいのを堪えた。 適当なことを言って話を合わせておけばいいんだとわかってはいるが、無難な返しというものが咄嗟に出てこない。こういう会話自体が久しぶりすぎるせいだ。 「それとも、もっと美少女系? 逆にギャルとか? あー、キレイ系ギャルと並んで歩いてたらお前、似合いそうだなー」 「やめろって。そういうのねえんだよ、俺」 「えー? 好きになった子がタイプです、みたいな? そんなんじゃねえだろ、橘って」 俺にどういうイメージもってんだよ。徐々に苛立ってくる。こういうのが面倒だから、ノンケとの付き合いをやめたのだった、そういえば。 溜め息を漏らす俺の顔を、山瀬は横からわざわざ覗き込むように見てきながら「それとも」と言った。 「マジで女に興味ねえの?」 口角を僅かにつり上げたその表情に、俺は一瞬、息を詰める。 どっ、と心臓が鳴った。口ごもりそうになったが、どうにかさほど間をあけずに「そういうことじゃねーよ」と笑みの形をつくることだけはできた。 「山瀬みたいに女のことばっか考えてるわけじゃねーんだよ、こっちは」 わざと軽い口調で言ってやると、山瀬も「はー? 俺そんなんじゃねえし」と笑った。 それきり話題は流れて、呼吸が楽になる。 山瀬は冗談のつもりだったんだろう。薄っすら笑っていたのはそのせいだ。そう自分に言い聞かせるが、あの表情と言葉は、俺の中の古い記憶を呼び起こすものだった。 ――あいつホモらしいよ。 耳元で囁かれるように、ほとんど顔も思い出せないクラスメイトの声が蘇る。そのにやついた顔と、さっきの山瀬の顔が重なる。 隣で軽口を叩いている山瀬に浅い笑いを返しながら、俺は内心必死で、網膜に焼き付いたふたつの顔を消そうとした。 うまく消えてはくれなかった。

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