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#5-2
山瀬の姿が視界から消え、俺は無意識のうちに呼吸を止めていた自分に気づいた。
はっ、と喉に空気が通って、それでやっと金縛りが解けたような感じがした。
山瀬の発した言葉を反芻する。俺の聞き間違いだろうか。いや、確かに言った。彼女はいない、彼氏はいた、って。
心臓がぎゅっと縮まる。
俺の知っている山瀬は、くだらない嘘をつく人間ではなかった。この七年間で変わってしまったというのでなければ。例えば俺をゲイだと疑って鎌をかけてくるとか、そういうことをする奴ではない。
ならば本当のことを言っているだけなのだろうか。今のはカミングアウトと受け取るべきなのだろうか。
わからない。
俺は周囲にゲイだと知られないよう、普段から言動には気をつけている。ゲイっぽい、という侮蔑や嘲笑を向けられないように。
でも、山瀬には見抜かれていたんだろうか。俺を同類と見てのカミングアウトなのか。
いや、そもそも。山瀬はゲイなのか? 大学の頃は彼女がいたし、どちらかといえば女好きなほうだと認識していたが。
思考が渦巻きだす。山瀬が戻ってきたら、何と言おう。楽しかった気分が一瞬にして不透明なものへと変わる。
しかし、それは一旦、取り越し苦労に終わった。
ややあって戻ってきた山瀬は、何事もなかったかのような顔で俺の前に座ると、グラスに半分以上残っていた酒をぐいぐいとひといきに飲み干した。
空にしたグラスをテーブルに置くと、彼はメニューを手に取り「橘、パエリア食おう!」と言った。
急に呂律が怪しくなったのに気づき、俺はその顔を見る。普通、トイレに立てば多少は酔いが醒めるものだと思うが、今の一気飲みのせいだろうか、明らかに目元が赤い。
「……お前、大丈夫か?」
「んー? 俺はぜんぜん大丈夫だよ。橘ももっと飲もうぜ」
ほら、と俺にドリンクメニューを差し出してくる。戸惑いながらも受け取ると満足げに微笑まれた。明らかにだいぶ怪しい。トイレで薬物でもキメてきたんじゃないかと疑うレベル。
ソフトドリンクを勧めるが、断固として受け入れないので、仕方なく度数低めのビールを二杯と海鮮のパエリアを注文した。
昔から、酔うとご機嫌になるタイプではあった。元来よく回る山瀬の舌が、さらにひっきりなしに回転し始めていて、俺はさっきの発言の真意を探るタイミングを完全に逃してしまった。
二時間ほど飲んで俺たちは店を出た。
さっきまでは山瀬が「もう一軒行こうぜ」と言うのを俺が「飲み過ぎだからやめとけ」と窘めていたのだが、会計を済ませたくらいから急に黙りこくってしまった。
酔っ払いのことだから、俺はさして気にしていなかったのだが。
駅への道を辿る俺におとなしくついてきた山瀬は、突然道端でしゃがみこんだ。まだ表通りに出る手前の路地で、周囲の店から賑やかな声は漏れ聞こえるものの、人影はなかった。
「おい、大丈夫か?」
数歩先を行き過ぎていた俺は慌てて駆け寄る。飲み過ぎで気分が悪いのだろう、吐かれたら困るな、と思いつつ、背をさすってやろうと伸ばした手が。
大きな手に掴まれた。
俯いたまま山瀬が何か言うが、聞き取れずに「ん?」と顔を寄せる。
「好き」
今度ははっきりとそう言った。
俺は山瀬に手を掴まれ、中腰の姿勢のまま固まった。
好き、と言ったのか、今。俺の聴覚のバグじゃなければ。
誰かと間違って口説いているのだと思いたかった。しかし続いて聞こえた細い声が、俺の希望を打ち砕く。
「橘が好き」
俺の手を握っている山瀬の手に、ぎゅっと力が込められた。
つまり、さっきのアレはやはり、カミングアウトだったということで。それで飽き足らず、俺のことが好きだって?
大学三年間ずっとつるんでいて、しょっちゅう同じ部屋で寝ていて、彼女ができたとニヤニヤ報告しながら合鍵を没収してきた、こいつが?
瞬時に目眩しいスピードで巡らされた俺の思考に、山瀬の「ごめん」という声が割り込んでくる。
「俺、知ってたんだ。橘が……俺と同じだって」
それを聞いて俺は、握られた手に汗が滲むのを感じた。
ゲイだとバレていた? なんで、いつから?
山瀬はそこでようやく顔をあげた。街灯に照らされた顔はやはり赤いし目も据わっているが、どうやら酔っ払いの戯れ言の類でないことだけは、思い詰めたようなその表情でわかった。
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