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#5-5
ごめん、と山瀬が頭を下げる。
ベッドの上で。朝。酒はほとんど抜けていた。
「こんな……、酒の勢いみたいにして、するつもりじゃなかった」
ごめん橘、とまた言って、シーツに額をすりつける。
謝られてしまった。
他人事のように思いながら俺は、現実逃避で枕元の時計を見る。
五時。まだ二人とも裸。そろそろ電車も動くし、さっさと帰って寝直したほうがいい、お互い。そう思うのに、とてもそんなふうには言い出せずに、俺はしばらく黙り込んでいた。
受け入れたのは俺だ。俺が拒むべきだったのだ。ホテルへ無理に連れ込まれたのでも、押し倒されて抵抗できなかったのでもない。俺は明確にセックスする気があった。アルコールのせいですらない。
だから山瀬が謝ることではないはずなのに、そう口にすることすら躊躇われた。
さらけだした肩に当たる空調のゆるい風と、シーツの中の湿度。肌に心地いいはずのそれらが酷く疎ましい。
やがて顔を上げた山瀬が、俺と目線の高さをぴったり同じに合わせて、「でも」と言った。
「好きだ。これは、本当だ」
端正な顔が真剣そのもので俺を見つめている。受け止めきれず俺はすぐに目を逸らす。
あまりにも直線的で痛かった。山瀬が昨夜ぶつけてきた感情は、もう長いこと俺には縁のなかったもので、どうしていいのかわからない。
素面に戻った今はもう、触れることすら怖かった。
「俺は」からからに渇いた喉、喘いで少し嗄れた声で呟く。
「お前に好かれるような人間じゃないよ」
心の底からの本音だけれど、言葉にするとどうにも言い訳くさかった。逃げ道を探しているだけのような曖昧さ。
目を逸らした俺の視線を強引に奪いとるように、山瀬は覗き込んできた。
「そんなの、橘が決めることじゃない」
そして俺の手の上に自分のそれを重ねる。温かい毛布のような体温。抱かれながら感じたのと同じ、山瀬という男の優しさをそのまま表したような。
「お前が、なかったことにしたいって言うなら……それでもいい。でも俺は忘れないし、お前のことが好きな気持ちも変わらない」
重なった手に力がこもる。ぎゅっと握られて感じる息苦しさ。真っ直ぐな瞳が俺を正面からとらえる。逃がしてくれない。
「好きだ、……何回でも言う。これは、なかったことにしないでほしい」
山瀬は先に一人でホテルを出た。残された俺は頭から布団をかぶり、暗闇の中で目を開けたまま深呼吸を二回した。性の匂いが残っていて、なんともいえない気持ちに拍車がかかる。
思考を止めて眠ってしまいたかったけれど、残念なことに頭は冴え冴えとしていた。
慈しむように触れられた感触が肌に蘇る。
善以外の相手に抱かれるのは久しぶりだった。
相性は悪くなかった。罪悪感とか背徳感とか、そういうものが脳内麻薬を余計に出させていた気はするが、俺はちゃんと気持ちよくなったし、山瀬も。
ただ、善とするときのようなあの感じはやっぱり、なかった。
自我が焼き切れそうなところまで追い詰められて、感じすぎて辛いのに、同時になぜか深い安堵で泣きだしたくなるような、あの感じは。
最低だな、と昨夜からもう何度目かのことを思う。
好きだと言ってくれた山瀬に、酷いことをしてしまったと思っているのに、俺は。
好きだ、という言葉ではなく、交わした行為ばかりを反芻して、そして善と比べている。
愛とか優しさとかそういうものの一切ない、快楽の深さだけにバロメーターを振り切った、善のセックスと。
自分がクズなのは知っていたが、ここまでとは。
自覚があるからといって罪が消えるわけでなし。
大きく息を吐き出す。どうにか少し寝よう、と思う。もう今は何も考えたくない。
運命的だ、って山瀬は言った。
運命ってなんですか。神様にでも訊いてみたかった。
閉じた瞼の裏で、俺は迷路を思い浮かべる。はずれの道の行き止まりにはドクロマークがあるような、チープな迷路だ。
何度か間違えたとしても、引き返せばいつかは辿り着けるゴール。
運命というやつがそういうものだとしたら、俺の人生はその反対だらけだ。
こんなはずじゃなかった、をいくつ積み重ねれば、正しいルートに戻れるのだろう。
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