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#5-6
「またカレーだ」
ソファで寝ていたはずの善が、いつの間に目を覚ましたのか、背中にぴったりくっついてきた。肩に顎を乗せられて邪魔だ。視界の端に見慣れた金色。お玉で小突いてやりたい。
「今日はいつものと違うぞ」
「なにが違うの?」
「鶏でも豚でもない」
「ビーフカレー」
「そう」
うーん、と唸りながら、俺の肩口に額をぐりぐり押し当ててくる。「俺、牛肉ならあれだなあ」やわらかいテノールが耳を擽った。「ハヤシライスのほうが好きだな」
「あー、その発想はなかった」
「今度作ってよ。ビーフシチューも好きだよ」
「カレー飽きてるだけだろ、お前」
「わかってるんならカレーやめてくれればいいのに」
「うるせえな。文句あるなら食うなっつってんだよ」
最初の頃は美味いっつって食ってたくせに。どんどん態度がでかくなる……いや、初めから態度はでかかったか。最初の日、俺のTシャツを勝手に寝間着にしていたことを思い出した。善は数着の普段着しか持っていないから、今も部屋着は俺と共用だ。
鍋に入れた固形のルーが溶けきり、コンロのつまみを捻ると、静かだった鍋の中が再び揺れだす。だいぶ崩れたジャガイモがひとつ鍋のへりに張り付いている。
「千亜貴さ、昨日、帰ってこなかったじゃん」
お玉を握って鍋をかき混ぜている俺の右手に、同じく右手で触れてきながら、善は言った。
「誰かほかの人と寝た?」
どこにいた、なにしてた、ではなくピンポイントにストレートな問いかけ。俺は「だったらなんだよ」と無愛想に答えるしかなかった。
「んーん、別に、どうでもいいけど……千亜貴、ほんと元気だね? ほかの人ともヤる余裕あったんだ」
呆れたような笑い混じりの声で言い、善は俺の手の甲を指先でつ、と撫でる。
「満足できた? ちゃんとイけた?」
「……イけたっつの。おい、邪魔だ、触んな」
「ふーん。とっくに俺じゃなきゃダメかと思ってたのになあ」
俺の言葉の後半を綺麗に無視した善は、拗ねたような声になった。そう感じたのは俺の気のせいかもしれないが。
カレーの鍋がぐつぐつ煮え始める。コンロの火力を少し弱める。やわらかいものが耳に当たって、俺は擽ったさに身をよじりながら「お前さ」と言った。
「俺がもし、ほかに男できたから出てけ、っつったらどうすんの?」
意図があって訊いたわけじゃない。面倒臭い女みたいな感傷なんてもちろんない。
ただ、どう答えるのか知りたかった。根無し草のような生活をしていたらしい善が、今ここで俺と一緒に暮らしていることを、どう思っているのか知りたかった。
返ってきた言葉は概ね、予想通りだった。
「どうするって、別に、どうもしないよ。言われた通り出てく」
「……あっそ」
「千亜貴が言ったんだよ? うちに来い、って。毎晩抱けって」
「そうだな」
「もう要らないって言うんなら、出てくけど。でもさ、千亜貴」
善のひんやりした指が顎に触れた。掬いあげて振り向かされた先に、宝石じみた青の瞳。もう見慣れたはずなのに一瞬、吸い込まれそうになって。
互いに目を開けたまま唇が重ねられる。それは会話の流れで交わすにしては深く、水音をたてて絡められた舌がぬるく震えた。
淡く透き通った、底の見えない泉のような瞳が、間近に俺を映している。善がゆっくり瞬くたび、ふちどった金色の睫毛がきらめく。ぼやけた視界の中でそれはとても綺麗で。
舌先を甘噛みされて、堪えきれずに目を瞑ってしまって、なんだかすごく、負けた気になった。
やがて解放されて瞼をひらくと、善は満足げに少し口角を上げて。
「要らなくないでしょ。俺、必要でしょ?」
答える言葉が見つからなくて、俺はふいと顔を背けた。
初めてキスされたな。ヤるとき以外で。別に意味なんかないんだろう。キスに前戯以上の意味合いなんて俺も要らない。
善はくすくす笑いながら、玩具で遊ぶ犬みたいに、俺の首筋にかぷかぷ噛みつく。
ぬるく湿った空気とともに、耳元で短いクエスチョン。
「今日は? する?」
「……するけど、あとで」
簡潔なやりとり。善が「わかったぁ」と鼻先を擦りつけてくる。
もう何度となく繰り返したことだ。
俺たちのあいだにあるのはセックスだけ。俺にはこれがちょうどいい。わかりやすくて心地いい。
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