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#6 オーバードーズとバニラ
橘、と呼ぶ声がこびりついて離れない。
俺をそう呼ぶのは現状、一人だけだ。その男は隣のデスクで眉を寄せてキーボードを叩いている。
「なあ、橘、ってば」
「……っ、あ、悪い……考え事してた」
何、と顔を向けると、山瀬は僅かに目を細めた。俺を心配しているみたいな顔だ。でもそれは一瞬のことで、すぐに「これなんだけどさ」とパソコンに視線を戻す。俺も倣って横から覗き込んだ。
山瀬と寝てからちょうど一週間が経つ。
山瀬の態度は、ほぼ完璧に今まで通りだった。
朝イチで向けてくる笑顔も、仕事中に少しふざけた調子でつかってくる敬語も。あの夜のことは幻だったと言われたほうがしっくりくるくらい。
でも、百パーセント変わっていないわけではなくて。
俺しか気づかない程度のささやかな変化は確かにあって。
たとえば、おはよう、と言葉を交わしたあとの視線。山瀬は少しだけ、何か言いたげな目をするようになった。ほんの数秒、こっそりと俺だけにそれを向ける。
そこに恋人が交わすアイコンタクトのような甘さはなく、むしろ友人としての気づかいが見えた。俺にはそれがいちいち痛かった。
「――じゃあ、これで進めといてくれ」
「わかった、ありがとな、橘」
話が終わり、俺は安堵の息を漏らした。山瀬に悟られないように小さく、だ。普段通りの声を出せていただろうか。未だに自信がない。
相変わらず昼は一緒に食っているが、二人きりになっても、山瀬があの夜のことを話題にすることはなかった。いつものハンバーガーショップ、山瀬の喋りと俺の相槌。
「橘、最近昼メシ、少なくねえ?」
そう指摘されて返事に困る。気づいてたのか、と少し驚く。
一週間ずっと食欲がない、というより、食べることへの気力が湧かない。普通のハンバーガーですら重く感じる有様だ。ストレスが胃にきているのだろうか。
「……そうか? 別に普通だよ」
「や、だってさ。お前、結構食うほうだったじゃん。こないだだって、ハンバーガー二個にポテトも食ってたし」
「なんでもねえって」
できるだけ自然な調子で笑ってみせる。どうせ見透かされるのだろうから仕方ないような気もしたが、それでも取り繕わずにはいられない。今まで通りを演じられなければ、今まで通りではいられないのだ、当たり前だけれど。
しかし俺のそんな気負いも、今日は無駄となった。
山瀬の両目にすっと昏い陰がさしたのを見て俺は、俺たちの進む風向きが変わったのを感じた。
「俺のせいだよな」
そう呟いて山瀬は少し俯く。賑やかなファストフードの店内では埋もれてしまうほどの、山瀬らしくない声だった。
「嫌になったか? 俺のこと。がっかりした?」
低く問われて俺は驚いてしまい、弾かれたように首を横に振った。
そんなの、こっちの台詞だ。なし崩しに友達とセックスできてしまう奴だと幻滅されてもおかしくない。
「そんなんじゃねえよ。ただ……」
周囲を気にして声をひそめながら、俺は言う。向かい合った山瀬はじっと次の言葉を待っていた。
「……俺は、お前の思ってるような人間じゃないから」
前にも言ったような言葉を繰り返した。それ以外に言い方が見つからない。
山瀬を傷つけたくはないが、同じくらい自分も傷つきたくなかった。我ながらなんて姑息な利己主義者だ、と思う。
山瀬は少し考え込むような目をしたあと、頭を掻いた。
「こないだも言ったけどさ。俺の気持ちは俺が決める。誰を好きになろうが俺の勝手で、橘が決めることじゃない」
言いながら、食い終わったハンバーガーの包み紙を、大きな手がくしゃっと握り潰す。
「お前が自分をどう思ってるのか、イマイチよくわかんねえけど……俺にとってはお前は、ちょっと愛想ねえけど面倒見が良くて、仲いい奴にだけ笑ってくれて、意外と顔に出やすくて嘘つけない。昔からそういう奴で、今も変わってなくて」
そこが好きだ、と俺にしか聞こえない声量で言った。視線は合わないまま。それから山瀬はMサイズのジンジャーエールのストローに唇をつける。俺の返事を待っているわけではない沈黙。
そして、
「来週から、しばらく昼は別で食おう」
「……え」
「そのほうが橘も楽だろ?」
肯定も否定もできない俺に、ちょっとだけ寂しげな微笑みをよこしてから、山瀬はトレイを手に立ち上がった。
「先、戻ってるな。ひとりでゆっくり食ってくれよ」
そう言ってさっさと立ち去ってしまった。
二人掛けの小さなテーブルの、突然からっぽになった向こう側。それを見ながら、俺はぼんやりと溜め息をつく。
味のしないハンバーガーの最後のひとかけ。黙って咀嚼し、飲み込んだ。
店内は相変わらず賑わっていて、俺がひとりで残されたことなど、誰ひとり気にも留めていないだろう。そんなものだ。さっきの山瀬のように、俺も頭を掻いた。
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