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#6-3
少しふわふわした心地で帰路を辿る。煌々とした明かりに背を押されるようにして最寄り駅を出た。
いっそのこと前後不覚になるくらい酔ってしまいたかったが、どうにもうまくいかなかった。夜道をゆっくりと進みながら、比較的はっきりしている頭で、俺は唐突に家族のことを思い出した。
わりと厳しくて無口な父と、おっとりした母。それに少し歳の離れた弟と妹がいた。
俺が家を出たとき、二人ともまだ中学生だった。兄貴がホモだとか大学中退だとか、多感な時期に変な騒ぎを起こしてしまって悪かったな、と思う。
もうとっくに大学生か社会人の年齢だ。俺と違ってまともに育ってくれただろうか。
父は子供を褒めない人だった。俺がどんなに良い成績を持ち帰っても、父は頷くだけだった。その代わり、母は事あるごとに俺たちを褒めた。ゆったりとした口調で、それはもうオーバーなほどに褒めちぎった。
今にして思えば、子供の自己肯定感を高めようとしてくれていたのだろうが、俺は両親の差がなんだか不思議だった。母のそれはいつも父の目のない場面で行われたから、褒められるのは悪いことなのだろうか、父に見られたら叱られるのだろうかとも思っていた。
そんな父に、一度だけ面と向かって褒められたことがある。
弓道部の主将になったときだ。「よくやった」と言われた。「集団の中でトップに立てるのは選ばれた人間だけだ。プライドをもってしっかりやれよ」と。
強い部だったわけでもないし、実際は実力で勝ち取ったというより、話し合いで決まったようなポジションだった。それでも俺は父から賞賛の言葉を得られたことが嬉しかった、自分でも驚くくらい。初めて父に自分の存在を認められたような気がした。
結局、最後の大会も地区予選止まり、俺たちの代はあっさりと引退して、それ以来父からあのときのような言葉をかけられることはなかった。大学に合格したときも、短く「おめでとう」の一言。
その次の記憶といえば「女に育てた覚えはない」と言って殴られたことだ。それまで手を上げられたことはなかった。父の形相よりも、その後ろで泣いていた母の顔のほうが記憶には焼きついている。
ふう、と溜め息未満の息を吐いて俺は天を仰いだ。星のひとつも出ていない曇った空。夜になっても引けない蒸し暑さが腕や首筋にまとわりつく。
俺の中の煮え切らないような思いが、大気に滲み出して不快指数を上げている気がした。
自宅のマンションが巨大な墓石のように立っていて、無意識のうちに窓を数える。
リビングの遮光じゃないカーテンから光が透けているのを見て、なぜかすごくほっとした。
今日は一人になりたくない。つくづく矛盾だらけの自分の心にうんざりしながらエレベーターのボタンを押した。
玄関を開け、脱いだ靴を揃えもせずにだるい足を引きずる。テレビの音が薄く漏れるドアの向こう。ソファの背もたれに金色の頭が乗っていた。
「おかえり千亜貴、遅かったね」
振り向いた善の姿に違和感を感じて、二度見。へらへら笑う顔がいつもより鮮明に見える。原因はすぐにわかった。髪だ。
「どお? 結構短くしてみたんだけど」
言いながら善は、自分の毛先を指でつまんでみせた。確かに相当ばっさり切ったようだ。サイドなんかほとんど刈り上げに近い。顔の左右に鬱陶しく垂れていた髪もなくなって、やや長めの前髪ができている。よく邪魔そうにくくられていた襟足もなくなっていた。
「いいんじゃねえの」と適当に言ったら「興味なさすぎでしょ。見てないじゃん」と笑った。
脱衣所で部屋着に着替えてからリビングへ戻ると、さっきはソファのど真ん中にいた善が三十センチくらい横にずれていた。空けられたスペースに腰を下ろす。
ドラマでも観ているのかと思ったら、画面に流れているのは映画だった。
「……これ、テレビでやってんじゃねえよな?」
「んー、レンタルしてきた。観たことある?」
「ある。嫌い」
後味の悪い映画としてあまりに有名な作品だ。美しい歌や踊りに彩られた主人公の夢想のシーンと、酷な現実とのグロテスクなコントラスト。まな板の上でトマトをまっぷたつに叩き切るような救いのない結末。
観たのはかなり前だったが、ラストシーンがしばらく頭から離れなくて、本当にキツかった。数年前に一度観たきりなのに、ここまで鮮明に内容を覚えている映画はほかにない。厳密には嫌いなわけではなくて、軽いトラウマと言ったほうが正しい。
しかし善は、
「そっかあ。俺、観たことなくてさ」
のんびりとそう言うだけで、映画を途中で止めるつもりは皆無のようだった。
仕方なく俺も画面を目で追ってみる。
俺の記憶が正しければ、だいぶ終盤にさしかかったところだ。もうじき終わるだろう。あのラストを目にした善がどんな顔をするのか、興味がなくはなかった。
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