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#7 トレモロ

「橘さん、なんか顔色悪くないですか?」 作業着姿の長岡知美が言った。 セットアップに手間取ってSOSを出してきた彼女を手伝っている最中だった。チームの中でトップレベルに優秀な彼女には、面倒な機種がよく割り振られる。躓いた場合に力になってやれるのは俺かチーフくらいだ。 そんな彼女が、心配げな顔で俺を見ていた。俺がきょとんとして見返すと、自分の目元のあたりを指さして「ちょっと隈っぽくなってますし」と言った。 「あー……寝不足かな」 「気をつけてくださいね。熱中症とかも怖いですから」 「そうだね、気をつける。ありがとう」 言いながら、無事に起動までこぎつけたばかりの機体を長岡知美に返す。 「あとは普通に接続確認とメンテナンスだけしといて」 「すみません、忙しいのにありがとうございました」 「いや大丈夫。じゃ、あとよろしくね」 はい、と答える長岡知美の落ち着いた声は凜としている。確か桜井里香と同い年のはずだが、なぜこうも違うのだろう、と薄く思った。 その桜井里香は、俺がデスクに戻るなり、待ってましたといわんばかりにやってきた。 「橘さぁん、なんか、入力できなくなっちゃったんですけどぉ……直し方わかりますかぁ」 その言い出しだけですでに辟易だ。 ちょうど山瀬が席を立っていて隣のデスクがあいており、そこに遠慮なく自分のノートパソコンを置くと、ピンクのラメが散る指先で画面を指した。 もし俺がこいつの親だったら、つまりすぐそこにいる社長かマネージャーのどちらかだったらって意味だが、仕事中に人に話しかける際は「今いいですか」的な枕詞をつけろということと、不要に語尾を伸ばすなということを厳しく躾けるのだが。 返事もなおざりにマウスを握る。そもそも彼女が触るのは社内の集計システムかエクセルくらいなのに、よくもまあ毎日毎日、不具合をこさえてくるものだといっそ感心する。 ほんの数アクションで画面のステータスを正常に戻すと、「ありがとうございますぅ、さすが橘さん」といつものやつを言って桜井里香はデスクに戻っていった。鼻に残る桃とメロンの匂い。深く息を吐く。 自分のパソコンに向き直ると、俺はオークションの取引管理画面をひらいた。 取引メッセージの対応業務は山瀬に完全に振っているが、また一件しつこいクレーム案件が出ていて、それだけ俺が対応中だった。 フラグをつけているフォルダに新規メッセージが届いている。うんざりしながら開封し、消費者センターだ弁護士だ警察だと常套句ばかりが並ぶそれを一応ひととおり読み、無心でテキストボックスを開く。 弊社といたしましては、使用に問題ない状態であると判断し、云々。中略。ご対応いたしかねます。ご了承くださいませ。 いったい誰の言葉なんだ。コピペで貼る丁重な拒絶。送信ボタンを押す。 そこでちょうど山瀬がデスクに戻ってきた。 「橘センパイ、そろそろ昼デスね」 「ん? あー、そうだな」 「俺は今日はうどんにしようかと思ってマス」 「……んー」 業務に集中しているふりをして、曖昧な返事を返した。 山瀬と一緒に昼を食わなくなって一週間以上経つが、山瀬は毎日こうして、自分のランチメニューをあらかじめ伝えてくる。律儀というかなんというか。 たぶんこれには、俺と行き先がかぶらないようにという配慮のほかに、自分が待っていることのアピールも含まれている。 そう、山瀬は待っているのだ。 俺が心の整理をつけて、何らかの回答を出すのを。山瀬の答えはもう出ているのだから、それを受けた俺がどうするのかを。結論が出たら、一緒に飯を食いながら教えてくれ、ということなのだ。 そこまでわかっているし、答えだってもう出ているはずだった。 山瀬とは友達でいたい。山瀬が俺を好きだということを嫌とは思わないが、セックスしたことを後悔しているし、できるなら恋愛もセックスも抜きの関係に戻りたい。 その答えを伝えたら、優しい山瀬なら、わかったと頷いてくれるのかもしれない。自分の恋を殺して、俺の望む通りに友達でいることを約束してくれるのかもしれない。 あるいは、そんなことは無理だと言われるかもしれない。恋愛感情を抱いたまま友達であり続けることの苦痛は俺だって知っている。関係を断ったほうがましだと思える苦痛だ。 どんな想像をしても、怖いと思う気持ちが消えなかった。 山瀬のいる日常が終わってしまう想像しかできなくて、怖かった。 だから、俺は未だに一人で昼飯を食い続けている。し、今日もそのつもりでいる。 この日常を表面上だけでも守るための、それが唯一の逃げ道だった。

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