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#7-5

玄関に善のいつもの靴はなかった。 昨夜から帰っていないのかもしれないし、昼時だから飯を食いに行っただけかもしれない。わからないがとりあえず、昼飯くらいは何か作ってやってもよかったのにな、と少し思う。 自分ひとりならカップ麺で済ませてしまおうか。ルルちゃんに怒られそうだな。冷や飯が残っているからお茶漬けでいいか、とか考えながら、とりあえずシャワーの用意をした。 外はまあまあ暑かったし、どうもコンビニというのは独特のにおいが髪や服にしみつく気がする。フライヤーの油のにおいだろうか。 十分くらいでシャワーを済ませ、リビングに入る。エアコンは切ってあったが、冷気の名残はまだ薄っすら感じられた。朝のうちは善がここにいたということだろう。 誰もいないリビングは酷く静かに思えた。仕事を終えて家に帰ると善がテレビを観ている、という日が最近続いていたから。 髪をタオルで拭きながらソファへ腰を下ろす。すぐそばの壁際の、善の荷物置き場になっている一角がふと視界に入った。その一点に違和感を覚えて俺は目を留める。 荷物置き場といっても、潰れたボストンバッグの上に、数着の服と下着が畳んであるだけだ。 細身の黒いパンツや、高そうな素材の無地のシャツ、レディース物みたいな淡い色のカーディガン。どれも畳み方が雑なのも気になるが、俺が気になったのはそれらではなく、その上にぽつんと乗っかった小瓶のようなものの存在だった。 あいつの持ち物なんて財布とスマホとキーリングくらいしか見たことがない。半年以上ここで一緒に暮らしているはずなのに、俺はあいつのことを本当に何も知らない。 しかしその瓶には見覚えがあるような気がして、俺は身を乗り出して手を伸ばした。 手のひらサイズの透明な瓶に、白地にオレンジのラベル。風邪薬のルルA錠だった。いつもルルちゃんが謎に持ち歩いているやつ。今朝も「一応飲んどくか?」とか言いながら差し出された。断ったけれど。 どこかで見たことある、という既視感の正体はそれで判明したものの。今度はその瓶自体に対して疑問が生まれた。あいつ風邪でもひいてんのかな、で終わることのできない、誰の目にも異常な点がその瓶にはあった。 「……んだこれ、金平糖……?」 俺の記憶が確かなら、この瓶の中身は白い錠剤のはずだ。しかし目の前のものは違った。 ぱっと見の色こそ白だが、よく見るとごく淡い黄色やピンクも混ざっている。何よりその形状は、つるんとした楕円形のよくある錠剤とは似ても似つかないものだった。小花を思わせる特徴的な表面の凹凸。 小さい頃にしか手にした記憶はないが、それは金平糖以外のものには見えなかった。 瓶の三分の二ほどを埋めているそれは、そっと振ってみるとからからと涼やかな音をたてた。ガラス細工のような透明感を感じさせて、光に透かすと控えめにきらきら輝く。 顔の高さに瓶を掲げ、しばしその輝きを眺めながら、俺は考え込む。 風邪薬の瓶のなかに金平糖が入っている意味を。そして、それが善の持ち物だということを。 ラベルの文字を読んでみる。商品名、製造販売元、裏側には成分表や用法、使用期限。もちろんルルA錠のラベルを暗記しているわけではないが、表記におかしなところはないように見える。となれば、善は風邪薬の空き瓶に金平糖を入れて所持しているということになる。 善はよく食うし、甘いものも好きなようだが、まさかおやつ用ではないだろう、と思う。 胸のあたりが嫌な具合に騒ぐのを感じた。静かに、だが大きく確実に、心臓がどくんと脈打つ。誰に見られているわけでもないのに手のひらにじわりと汗が滲む。リモコンを持って映画を巻き戻す善の横顔がよぎる。 左手に瓶を握ったまま、右手の人差し指の先で蓋に触れた。黄緑色の無機質な蓋だ。親指とで挟んで力をこめる。きつめに閉められていたが開けることに難はなかった。くるくる回して蓋が外れるまでの時間が、とても長く感じた。 開いた口から瓶の中身を覗き込む。湿った手のひらを片方広げ、その上で瓶をゆっくり傾けた、そのときだった。 がちゃがちゃがちゃ、と音がした。 玄関から。 びくっと全身が硬直する。 鍵穴に鍵を突っ込んで乱暴に回す音。 スリラー映画の中に入ったみたいな恐怖が襲った。ドアの開く音が大きく響く。 引きずるような足音がして、ドアが閉まる。靴を脱ぎ、靴下で歩く廊下の僅かな軋み。 俺はその場に凍りついたまま視線だけをリビングの扉に向けるが、そこに近づく前に足音は途切れた。別の場所のドアを開ける音。玄関から入ってすぐの、恐らく――トイレ? 研ぎ澄まされた聴覚が、苦しげな呻き声をキャッチした。 嘔吐(えず)いている、とすぐにわかった。むせたように咳き込むのも聞こえる。 俺は立ち上がり、廊下へ出た。上から糸で操られてでもいるかのような感覚だった。 トイレのドアが開け放たれていて、ジーンズに黒い靴下の足がはみ出しているのが見える。嘔吐く声に合わせてその爪先が床を掻いた。

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