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#7-6

無意識のうちに自分の足音を消す。そっと近づいていくと、便座にしがみついて蹲る背中と、金色の頭が見えた。ぜえぜえと荒い呼吸音。肩が忙しなく上下している。 「――善」 恐る恐る声をかけると、その背中が小さく跳ねた。肩越しに振り向いた顔は青ざめていて、落ち窪んだような目元がぎらりと光る。 まるで手負いの獣だ。 俺はそれ以上近づくのを一瞬躊躇うが、唸るような低い声に「……ちあき」と呼ばれて、はっと我に返る。 「だ、……大丈夫か」 蹲った背中に手を伸ばすが、片手で呆気なく振り払われた。壁のホルダーからトイレットペーパーを取って口元を拭う仕草は、思ったよりも落ち着いている。俺は払われた手を行き場なく宙に浮かせたまま、その姿をただ見下ろしていた。 「……千亜貴、なんでいるの。仕事は……?」 「あ……休んだ。朝、体調悪くて……」 「……そう」 吐いたせいか、いつもよりがさついた声で言いながら、善は便器の蓋を閉め、レバーを引いて水を流す。 「俺も、ちょっとクラッとしちゃっただけ。外暑くてさ……気にしないで」 平然を装ったような口調といい、よほど俺に見られたくなかったんだな、と直感的に思った。しかし手や肩がまだ震えていることに気づいてしまう。そのまま立ち上がろうとしてよろめくものだから、思わず抱きとめて支えた。 触れた手がびっくりするほど冷たい。血圧が下がっているのだろう。 「無理すんな。いま、水」 持ってきてやるから、と言いかけたところで、俺は自分の手の中に握りっぱなしだったものに気がついた。金平糖入りの小瓶。 ほぼ同時に、善もそれに気づいたらしい。はっと目を見開いたかと思うと、ひったくるようにして俺の手からそれを奪いとり、身体を離して後ずさった。 今までに見たことのない、追いつめられた顔をしていた。血走った目で俺を睨み、青白い肌に脂汗を浮かせ、息を荒げて。 まるで――薬物依存患者(  ジ ャ ン キ ー)みたいな。 両手で覆い隠すように、縋りつくように、その小瓶を震えた手で握りしめる善が、トイレの壁に背を凭れて大きく息を吐く。たぶん、自分を落ち着かせようとしている呼吸。 ほんの一メートルほどの距離に途轍もないものを感じながら、俺は渇いた喉から声を絞り出す。 「善、それ、なに」 訊かなくたって答え合わせは済んだようなものだった。それでも訊かずにいられない。 善は、そのまま何度か深呼吸を繰り返していた。血色の悪さは変わらないものの、異常な目つきや強張った口元は次第に緩み、徐々にいつもの善に近い顔になっていく。そのグラデーションは俺の脳裏に勝手に焼きついていった。 やがて唇を微笑のかたちに歪めた善が、 「ただの金平糖だよ」 と言った。その手の中で小瓶が微かに音をたてる。 俺はきっと不愉快を絵に描いたような顔になっていたと思う。 「嘘つけ。怪しいだろ、どう見ても……」 「別に悪いもんじゃないって。ちょっとだけ頭がふわふわっとして、楽しい気分になって、ちょっとだけ身体が敏感になる、ってだけ」 じゅうぶん悪いもんじゃねえか。微笑む善を睨みつける。透き通っているはずの青い瞳がどこか濁って見えた。その目を細めて善が悪びれず言う。 「千亜貴も試してみる?」 「……嫌だ」 「ああ、クスリとかダメなんだっけ? でもこれなら大丈夫だよ。ただの金平糖だから」 「嫌だ、っつってんだろ……っ」 無性に腹が立っていた。自分でもなぜかわからないが、心の底から憎く思えた。キリスト教徒にとっての十字架のように善が握りしめているその瓶が。 「お前……、ヤるときいつもそれ、使ってたのか?」 怒鳴りつけたいような気持ちを喉の奥に押しとどめながら、低く震えてしまう声で言う。善は「んーん」と首を横に振った。 「千亜貴とするときは使ってないよ、一回しか」 「一回……って」 「ウケするときしか使わないんだ」 言いながら善は重ねた片手だけをほどいて、瓶を小さく横に揺らした。星のような中身がその存在を主張するようにカララ、と鳴る。 あの日、様子がおかしかったのは、そのせいか。クスリでハイになってやがったのか。

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