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#8-8

「……はい」 我ながら酷い声が出たと思う。地獄のように低いし、喘ぎっぱなしで嗄れきって、自分の声と思えないくらいだ。にも関わらず桜井里香は、ぱっと顔を輝かせた。 『よかったぁ、一人で動けなくなってるのかと思っちゃったぁ』 言いながら、コンビニのものらしきビニール袋を両手で顔の横まで持ち上げてみせる。 『あのぉ、いろいろ買ってきたんです、食べ物とかお薬とかぁ……よかったらおウチ、入れてもらえませんかぁ?』 「……や、すみませんけど、結構です」 『心配なんですぅ。橘さんの顔見るまでは帰れないー』 「無理です。帰ってください」 『ええー、なんでですかぁ? 冷たぁい』 面の皮が厚すぎて尊敬の念すら覚える。耳元で善が、マイクに拾われない程度の声で「ヤバいね、この子」とくすくす笑った。 「千亜貴、こんなのに好かれちゃってんの? 大変だねえ……」 画面の中で、長岡知美が慌てたような仕草で桜井里香の肩に手を置く。 『り、里香さん……今日はもう帰りましょ、ね?』 『えー、でもぉ』 恐らく長岡は頼み込まれて連れてこられたのだろう。彼女に怒りは湧かない。 反対に、長岡という一般常識にストップをかけられても、なお引き下がらない桜井里香はモンスターに思えた。 どこまでも自分本位で、自分の感性が世界の共通言語、そんなふうに思って生きているのがありありとわかる。自分の好きになった相手がゲイだなんて微塵も想像していないどころか、あってはならないことだとすら思っているに違いない。 この女は、俺と違う世界の住人だ。 父親と同じ。 「女に育てた覚えはない」と言い捨てた、俺の父親と。 気づかないうちに、握りしめた手がぶるぶる震えていた。その拳でモニターを叩き割ってしまいたい衝動に駆られた、そのときだった。 善の手がいきなり俺の腰を掴み、熱いままのものを後孔に突き立ててきた。 「……ッ! ぅ……っく……」 一気に奥まで入り込まれて、声があがりそうになったのを、本当にぎりぎりのところで噛み殺した。咄嗟に手で口を覆い、非難を込めた目で善を振り返る。善はわざとらしく小首を傾げて笑っていた。 「っ……、ふ……ッ」 大きな動きで抜き挿しされて、必死で声を抑えながら、片手を壁につく。膝ががくがく震えて崩れそうになるのを善が許さなかった。 腰を突き出した格好で支えられたまま、肌と肌がぶつかる音が、インターフォン越しに聞こえてしまいそうなくらい響いている。 ほとんど壁に頬を押しつけるような体勢になりながら、もう本能のままに喘いでしまいたいと霞んでくる脳裏に、不快な泥のような声が流れこんできた。 『橘さぁん、どうしてもダメですかぁ?』 カッと目の前が赤くなる。茹だった頭を激昂が焼く。 ぜんぶ、異世界のものだ。この女も、会社の奴らも、道行く知らない他人も、もう二度と俺を見ない父親も、ぜんぶぜんぶぜんぶ。 俺をお前らの言葉で表そうとするな。俺に構うな。ほんとうの俺を知ったら否定しかしないくせに。 気づいたら俺は、「かえれ」と口にしていた。 ずっととぐろを巻いていた感情が、喉から噴出する。画面の向こうの女に向かって俺は怒鳴りつける。 「帰れッ……そのツラ二度と俺に見せんじゃねえ!」 通話ボタンに手のひらを叩きつける。女の反応を俺に知らせないままモニターは沈黙した。 俺はついに膝からその場に崩れ落ちて、善も今度はそれを遮らなかった。 白い冷たい壁に額を押しつける。手の震えはまだ止まらない。頭に昇っていた血が急激に下っていくような感覚。 やってしまった。 相手は社長の娘なのに。もう会社にいられなくなるかもしれない。そんな焦燥と自己嫌悪がじわじわと湧いた。ついさっきまで会社のことなんて綺麗さっぱり頭から消えていたのに、反動のようにそれに囚われる。 そんな俺を善は甘やかした。後ろから抱きしめられ、耳元に唇が触れる。 「よくできました」 えらいえらい、と言いながらうなじにもキスを落とされる。ぐちゃぐちゃになった感情の整理がまだついていない俺は、なぜだかその言葉に、救われるような心地がした。 「千亜貴は悪くないよ。こんなに楽しくて気持ちいいことしてるのに、邪魔するほうが悪いんだよ」 「あ、んっ、……ふ、っ」 繋がったままだったところを、さっきとは打って変わって優しく揺すられる。壁に縋りつくようにしていた両手を上から包まれ、その温かさに、胸が苦しくなった。 「……善」 「うん?」 「善……」 「うん」 泣かないで。そう言われて初めて、自分が泣いていることに気づく。 気づいたらもう、止まらなかった。 目からぼろぼろと零れる涙はやたら熱くて、俺は自分が泣いている理由がよくわからず、ただ善がその涙をキスで散らしてくれた瞬間に、死にたい、って思った。 死にたい、このまま死にたい、って。唐突に。 思っただけじゃなくて、たぶん口走ったのだろう。善の片手が俺の頬に添えられ、振り向かされて、唇が重なる。 浅い角度だったが、何度も何度も触れた善の唇は俺のそれと隙なく合うようにできている。 同じように下肢だって、もう、奥の奥までぴったりで。 ゆっくり、でも動きを止めることはなく中を擦られながら、首に絡みついてくる温もりに恍惚を憶える。 長い指が、温かい指が俺を、絞めつけていく。 「いいよ、死んでも」 善が囁く。優しい声。涙がまた溢れる。

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