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#9 セブンスター
「フランダー」の戸口をくぐるなり、啓吾 ママが血相変えてカウンターから出てきた。
「チイちゃん、ちょっと、あんた大丈夫だったの?」
「え」
オネエ特有の仕草で二の腕あたりを掴まれる。まだオープン早々の時間だからか「フランダー」は空いていて、ママと話しながら飲んでいたらしい客のひとりがこっちを見ていた。
「なんかちょっとやつれてない? ルルちゃんのとこで倒れたらしいじゃないの」
「ああ……うん、大丈夫。ただの貧血だったし」
「ルルちゃんもそう言ってたんだけどね」
大ぶりな指輪のたくさん嵌められた手を口元にひらめかせ、ママは少し声をひそめる。
「一昨日だったかしら、あんたのこと聞きにきた子がいたのよ。山瀬、って名乗ってたけど」
「え……山瀬が?」
「あんた、しばらく無断欠勤してるらしいじゃないの。電話もメールも応答ないから心配で、前にあんたがこの店から出てくるの見かけたから、もしかしたらと思って来てみたんですって」
ママの言葉に驚きを隠せなかった。確かに山瀬は俺がこの店に来ていることを知っているはずだが、まさか探しに来るなんて。
ママの言うとおり、もう二週間余り仕事に行っていない。初めはチーフから何度か着信が入っていたが、無視していたら来なくなった。しかし山瀬からは、今でも日に一、二回は着信があるし、メールも来る。どれも反応せずに放置していた。
「あ、大丈夫よ、あたしからはなにも言ってないから。そもそも本当にチイちゃんの友達かもわかんなかったし、プライバシーに関わるようなことは一切、言ってないわ」
「……そっか。ありがと」
「でもその子、本当に心配そうだったわよ。もしかしなくても、ヤっちゃった友達ってあの子でしょ。前に言ってた」
図星を突かれて思わず顔を歪めてしまう。ママは肩を竦めた。
「俺のせいかなあ、ってぼやいたりもしてたわよ。連絡してあげたら?」
「……ん、そうする」
二週間以上、正確には十三日の無断欠勤、上司からの連絡無視。桜井里香への暴言もあるし、どのみちもう会社にはいられないだろう。
ぜんぶどうでもいいという気持ちではあったが、山瀬のことだけは気にかかる。
まずは山瀬に連絡してみよう、と思った。そう思えただけ、この数日間の自分を振り返ってみれば、進歩した気がした。
カウンターの中に戻るママに、奥の二人掛けのテーブル席を指さして言う。
「今日、ルルちゃんと約束してんだ。あそこの席、いい?」
「あら、そうなの。どーぞぉ」
隣のテーブルとの間に仕切りのある、この店では唯一の個室っぽい空間。ほとんどいつもカウンターだから、逆に落ち着かないような気持ちでそこに座る。
烏龍茶をもらってちびちび飲んでいると、十分ほどでルルちゃんがやってきた。
「よお。元気だったかよ」
「……ルルちゃん、その格好で寒くねえの」
盛夏も過ぎて夜は涼しくなってきたというのに、黒いタンクトップ一枚、財布をポケットに突っ込んだだけの、相変わらずの軽装だ。「ぜんぜん平気」と言いながらルルちゃんは俺の向かいに掛け、ママにビールふたつとミックスナッツを頼んだ。
「いきなり呼び出しやがって。電話も出ねえし、心配してたんだぜ、これでも」
「悪かったって。いろいろあったんだよ、俺も」
ルルちゃんからも何度か着信があったが、何せ一昨日までは人と会話をする気になれなかったのだ。近所のコンビニで飯を買う以外、ずっと引きこもっていた。社会との繋がり的なものがすべてどうでもよくなってしまって、ひとり悶々と過ごしていた。
善のいなくなった部屋を出て、今日ここに来る気になったのには、わけがある。
「俺、ルルちゃんしか友達いねえからさ」
「お……ついに認めたか」
「頼みがあるんだ。話、聞いてくれる?」
俺はルルちゃんに、善のことをぽつぽつと話した。高校時代のこと。同居していた数ヶ月間のこと。そして、先々週の金曜日を最後に、いなくなったこと。
「つまり、そいつは最初っから、高校時代の復讐をするつもりで千亜貴に近づいた……ってことだな?」
ルルちゃんはビールをほとんど飲み進めないまま、クソ真面目な顔をして俺の話を聞いていた。顎に手をあて、眉間の皺を深くしている。直球な人間だから、こういうやり口は気に喰わないんだろうな、と予想はついた。
「会ったのは偶然だけど。ヤりたいからウチ住めって言ったのも俺だし」
「改めて聞くと、お前もだいぶイカレてんなあ……」
「まあ、それもあいつの手のひらの上だったんだろうね。人心掌握とセックスのテクだけで生きてきたみたいだから」
俺が合鍵を渡したとき、善はどう思ったんだろうか。表面上はあまり変わらず「いいよ」というのんびりした返事だけがあったのを思い出す。
今までにも同じような奴がいたんだろうなということは察しがついたし、断られそうな気がしていたから、俺のほうが動揺したくらいだ。
「でも、復讐すんのやめたんだって。気が変わったんだって」
「惚れさせたんか。やるなお前」
「だとしたら黙っていなくなんのおかしいと思わねえ?」
好きだ、と確かに言われた。まる二晩以上かけて何度も言われた。だがそれは果たして愛の言葉だったのか。甚だ疑問である。
何日も何日も考え続け、善の言動を思い返し、時々自慰に耽りながら、俺はひとつの結論に到達した。
「復讐やめた、ってのが嘘だったんじゃねえかな、って」
「なるほどな。当初の予定通り、千亜貴を自分に惚れさせたとこでポイか」
「……惚れてねえけどな」
ルルちゃんの言い方は語弊があるが、これが一番頷けるシナリオではあった。事実、俺は現在進行形で、善がいなくて身体を持て余しているし、仕事だってたぶんクビだ。俺の人生をめちゃくちゃにするという目的は、ある程度達成してはいる。
「うーん、でも、弱くねえかあ? 現にお前、結構ケロッとしてるじゃん。俺がそいつだったら、そんなんじゃ満足できねえな」
「もっと絶望させて地獄みたいな目に遭わせないと気が済まない?」
「あー、うーん、……まあ、そういうことだなあ」
同意見だ。俺だって善の立場なら、失業と欲求不満くらいで満足なんて到底しない。善が俺に見せられうる、もっと深い地獄について、俺は考えて。
そして辿り着いたのが、
「これ見てほしいんだけど」
例のルルA錠の瓶だ。中身は白と黄色とピンクの金平糖。
ポケットから取り出したそれをテーブルの上にことりと置くと、ルルちゃんはさも訝しげに目を細めた。
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