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#9-2
「なんだよこれ」
「あいつが持ってたんだ。気分良くなって、敏感になるんだって」
「セックスドラッグかよ」
「ただの金平糖」
「んなわけあるかァ。怪しすぎんだろ、こんな瓶に入れてよぉ」
ルルちゃんが太い指で瓶をつまみあげ、からからと少し揺らした。ややオレンジがかった照明を受けて、星を閉じ込めたような中の粒が輝く。
「これだけ、うちに置いてったんだ」
脳裏に善の手を思い浮かべた。この瓶を御守りのように握りしめ、筋を浮かせていたあの白い手。
善がこれを俺のもとに置いていったことに、意味があるような気がしてならなかった。
俺はルルちゃんから瓶を受け取り、蓋をあける。広げた手のひらの上に五粒ほどそれを取り出すと、ひといきに口の中へと放り込んだ。
「うわっ! おいっ、マジかよ」
突然のことにルルちゃんが焦りの声をあげる。
俺の腔内にはすぐに甘い味が広がった。飲みこむでも、溶けるのを待つでもなく、奥歯でガリッと噛み砕く。
ごりごり、と骨に響くような音とともに咀嚼する俺を、ルルちゃんは呆気にとられた顔で見つめていた。
「……だ、大丈夫なのかよ、お前」
「大丈夫。実証済み」
一昨日のことだ。部屋でひとりで一粒、飲んでみた。というか、食ってみた。
口に放り込んだはいいが、なかなか飲みこむ決心がつかず。舌の上で転がしているうちにだんだん溶けてきて、結局最後は今やったのと同じように、噛んでしまった。
口には甘ったるさしか残らず、善の言ったような効果は、いくら待っても結局、顕れなかった。
白いのと、黄色いのと、ピンクの。計三粒、試してみた。結果は同じ。甘さで舌がべたつくだけ。
そこからさらにいろいろ考えた。もしかして俺は善に日常的にこれを盛られていて、耐性がついてしまっているんじゃないか、とか。薬物のせいだったとしたら、善とのセックスにあそこまでハマったのも納得がいく。
だから、誰かに協力してもらって確かめたかった。
今日ルルちゃんを呼び出した理由がそれだ。
「ルルちゃんも試してみてくんない?」
蓋のあいた瓶を差し出しながら言う。予想通り、ルルちゃんは盛大に眉を顰めた。「頼みってそれかよ」と呟き、俺の手の中のものを胡乱げに見やる。
得体の知れない薬物を試してくれだなんて、おいそれと他人に頼めることじゃない。それでも確かめたい。
ルルちゃんは見た目と違ってとても真面目な男だから、こんな怪しいものを口
にするのは嫌がるとわかっていたが、俺には彼しかいないのだ。ルルちゃんをまっすぐ見つめ、「頼むよ」と重ねる。
「俺だけじゃ確証もてないんだ。今日ここ奢るから」
「うーん……」
「万が一、効果出ちゃったら、俺が責任もって相手するし」
「……お前なぁ、もちっと自分を大事にしろっつーか」
ルルちゃんは強面を歪めたまま数秒ほど黙り込んでいたが、ぐしゃぐしゃと頭を掻き「わかったよ」と言った。手のひらをこっちに向けて突き出してくる。
「寄越せ」
「さすがルルちゃん。ありがとう」
「ってオイ! 多い多い!」
勢い余って十粒くらい出てしまった。きっちり半分返される。ルルちゃんの大きな手の上に、可愛らしいキラキラした粒が乗っかっているのは、状況さえ違えば笑えそうなくらい似合わなかった。
ルルちゃんは少しの逡巡の末、意を決したように勢いよく手のひらで口元を覆った。すぐにガリ、と噛み砕かれる音がする。落ち着きなく宙に視線を彷徨わせながら、ごり、ぼり、とゆっくり顎を上下させ、やがて嚥下した。
「確かに……味は普通の金平糖だな」
首を傾げるルルちゃんに頷きつつ、俺はテーブルの下でこっそり靴を片方脱いだ。大きく膝を開いて座っているルルちゃんの股間に、そうっと爪先を近づけ、不意打ちで押し当てる。
足指でまさぐると、ジーンズ越しにふにっとした感触があった。「うわあっ」と叫んでルルちゃんが椅子から飛び上がる。誇張ではなく。
「てめ、なにすんだ!」
「どお? 敏感になってる感じとかある?」
「びっくりしてそれどころじゃねえわ! お前は、ホントによぉ……!」
俺の足先を押しのけながら座り直すルルちゃんは、額に変な汗を滲ませていた。ビビリか。それをおしぼりで拭きつつ、ジョッキのビールを一口だけ呷る。
「つーか、そんなすぐ効果って出るもんなのか? ちょっと待たなきゃわかんねえんじゃねーの」
「そうだね」
「わかっててやってんのかよ……」
俺もジョッキに残っていたビールを飲み干すが、腔内にこびりついたような甘ったるさは完全には消えなかった。それがまるで、何度シャワーを浴びても石鹸で擦りまくっても、善に触れられた感触を消せない俺の肌みたいで。やるせないような気分で息を吐く。
「俺がクスリに依存するように仕向けたのかと思ったんだ」
瓶の蓋を閉め、手の中で転がしながら呟く。
「荷物ぜんぶ消えてるのに、これだけ置いていかれたら、めちゃくちゃ気になるだろ。ちょっとくらい試してみる気になってもおかしくないだろ。で、見事ハマって、そっちの道にズルズル、とかさ。……そういう地獄、かと思って」
俺がぼそぼそ話すのをじっと聞いていたルルちゃんは、溜め息をつきながら肩を竦めた。
「そこまで予想した上で、試したのかよ、お前」
「……うん」
まんまと善の策に乗ることになる可能性もあった。わかっていても、知りたかった。いなくなった理由も、これだけ置いていった理由も、なにひとつ俺にはわからなくて、これだけが手がかりのような気がしたから。
「でも、ルルちゃんのおかげでわかった」
伏せた目の先に、中身の少し減った瓶。細かい棘に覆われた小さな球体たちは、何も言ってはくれない。
「……本当に、ただの金平糖なんだよ、これ」
善はクスリなんかやってなかった。
確かに安堵はあった。しかし疑問は残る。
俺にこれを見つかったときの、善のあの反応。血走った目をして俺の手から取り返し、縋るように握りしめていた。
依存性なんかあるわけないただの砂糖の塊を、薬の空き瓶に入れて持ち歩き、拠り所にしている。それはむしろ薬物中毒よりも病的にすら思えた。
あれはなんだったのか。
この小さな砂糖菓子は、善にとって一体、何なのか。
黙りこくってしまった俺とルルちゃんのあいだの、なんともいえず重い沈黙を破ったのは、不意に落ちてきた声だった。
「それ……どうしたの」
二人そろって弾かれたように顔をあげると、テーブルの横に啓吾ママが立っていた。その視線は俺の手の中にしっかりと注がれている。深く考えこんでしまっていたようで、ママが横に来ていたことにまったく気づかなかった。
やばい、と思って横目にルルちゃんを見ると、彼も同じことを思ったのだろう、頬に露骨に焦りを浮かべていた。
こういう夜の店では怪しいものが横行しやすい。啓吾ママはそういうものを絶対に許さない主義で、手を出したとわかった途端に、常連客だろうが容赦なく出禁にする。
俺は咄嗟に瓶を両手で覆って隠してしまう。逆効果かもしれないが、そこまで頭が回らなかった。
「ママ……これ、違うから。ただの金平糖だから」
「そう、千亜貴のオトコが置いてった謎の金平糖」
「ちょ、変な言い方すんなって。逆に怪しいだろ」
「どう見たって怪しいことに変わりねえだろうが」
あたふたする俺たちに、ママは「見せて」と手を突きつけた。一瞬躊躇するが、俺は逆らわずに恐る恐る瓶を差し出す。事情を話せばママもわかってくれるはずだ。実際、どうやらそれは薬物ではないのだし。
目を眇め、瓶をひっくり返しながらじっと検分していたママの口からは、しかし、予想外の言葉がこぼれ落ちた。
「もしかして」
いつになく低められた、戸惑い混じりの、それでいて確信めいた声。賑やかな店内で、この場だけがしんと空気を張りつめさせる。
「もしかして、チイちゃんが一緒に住んでた相手って、……善、くん?」
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