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#9-3
夏の盛りを過ぎたとはいえ、晴れた真っ昼間の外気は三十度近い数値を記録していた。
コンビニで買ったばかりの白いタオルハンカチで、滲んで止まらない汗を拭いながら、俺は日陰のベンチに腰を下ろした。
とある駅前。用事などあったことがなく、乗り換えですら降りたことのない駅だった。知らない街の公園のベンチでひとり、ハンカチと一緒に買ったスポーツドリンクを、喉を鳴らして飲む。蝉の声がしている。
駅前は飲食店がそれなりに点在していて、少し歩くとすぐに住宅街に入るような、そういう土地だ。確かに他人の生活の気配で満ちあふれているのに、俺の生活とは交わったことのない場所。
オカルト話でよくある、気づいたら名前を聞いたこともない土地にいた、みたいな――もちろん俺は自分の意思で今日ここに来たのだけれど、なんとなくそんな感じの、どこか地に足のつかないような心持ちだった。
向こうの歩道をゆく通行人をぼんやりと眺めながら、俺は背負っていたボディバッグを開く。そこから俺のじゃないキーリングを取り出し、手のひらの上にのせてまじまじと眺めた。
善がうちに置いていったものは全部で四つ。
例のルルA錠の瓶と、数本残った煙草が一箱、安っぽいメラミンの灰皿。そして、このブロンズカラーのキーリング。
シンプルだが一目でシャネルとわかるものだった。厚みのあるコインのような丸いプレートに、有名なあのマークがしっかりと象られている。
表面には細かな傷が無数に刻まれ、使用感が強かった。善が数年に渡って肌身離さず持ち歩いていたであろう歴史を感じさせる。
リング部分には、ふたつの鍵が取り付けられていた。ひとつは俺が渡したものだ。うちの合鍵。善がそれをこのキーリングに付けるのを、俺は目の前で見ていた。もうひとつの鍵は、そのときからすでにそこにあった。はっきりと憶えている。
どこの鍵なのかは訊いたことがなかった。気にしたこともなかった、というのが正しい。お互いのことを詮索しないのは俺たちのあいだの取り決めだった。
ただ、確かキーリング自体はどこぞの女に貰ったようなことを言っていた気がするから、鍵はその女の家のものなのだろうなと漠然と思っていた。そして、もし俺が善を追い出すことがあれば、善はその女のところに行くのだろうな、と。
しかし善は、それらをまるごとうちに置いていった。
善が今どこにいるのか、どこで寝泊まりしているのか、知る術はない。たぶん誰かの家をあちこち転々としているのだろう、セックスを対価に。それを探すというのは途方もないことに思えた。実際、善を探そうと、はっきりと思ったわけではなかった。
今日俺がここに来たのは、昨夜の啓吾ママの話を聞いたから、に他ならない。
ママは善のことを知っていた。成人したばかりの頃の、俺が知らない時代の善を。
「あたしね、若い頃はゲイ風俗にいたこともあったのよ。三十過ぎてからは自分のお店持つためにいろんなバーで修行させてもらってたんだけど、その前ね。
で、八年くらい前かしら。お世話になったオーナーに頼まれて、その風俗店のボーイの子をひとり、面倒見てたの」
いつものカウンター席に移動した俺とルルちゃんの前で、水割りを飲みながらママは語ってくれた。
「高卒でホストやりながら、オトコ相手に身体も売って荒稼ぎしてたところを、そのオーナーが拾ったらしいわ。フリーで誰彼構わずって結構、危ないから。同じウリにしても、お店に所属して、客を選べる環境でやったほうが安全なのよ」
「あたしが初めて会ったときは、目は血走ってるし頬はこけてるし、なかなかの顔つきだったわよ。あんまり隈が酷いから、その場でコンシーラー貸してやったの憶えてるわ。
でも客の前に出ると、別人みたいにやわらかーい雰囲気になって、まあまあ人気とってたみたい。そのギャップがあたしは怖かったわね」
「三ヶ月くらいの短い間だったけど、うちに泊めてあげてたの。家がない、って言ってた。
なかなか心開いてくれなかったんだけどね、最後のほうは少し、自分のことを話してくれるようになってた。
高校を出てからずっと、必死でお金を貯めてたみたい。その目的は結局教えてくれなかったんだけど、もうすぐ叶えられそうだ、って笑ってたの」
普段客前ではあまり喫わないはずの煙草に、ママは火をつけた。右手の人差し指に嵌められた指輪の、大きな赤い石が光る。
「精神的に不安定な子だったけど、自分なりの安定剤を持ってたわ。それが、金平糖だった」
そう言ってママは、カウンターの上に置いた小瓶を、懐かしそうに見つめた。
「駄菓子屋で売ってるようなやつを、薬の空き瓶にわざわざ入れ替えて持ち歩いてたの。小さい頃、お母さんがそうやって持たせてくれたんですって。嫌なことがあったら、これを食べて幸せな気持ちになって忘れなさい、って」
ママの声がほんの少し潤む。天井に向かって深く煙を吐き出し、遠い過去を見る目をしていた。
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