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#9-5
始業時間ぎりぎりを狙って到着し、この上なく重い気持ちで事務所の扉を開けた。
懐かしくすら感じられる同僚、上司、全員の目が俺に集まったのは決して気のせいじゃないと思う。山瀬の驚いたような、心配そうな、それでいてほっとしたような複雑な表情が印象的だった。
奇妙に静まりかえった事務所の中を、自分のデスクに向かって歩いていく。斜向かいの桜井里香と一瞬だけ目が合ったが、逸らしたのは俺ではなく向こうだった。
チーフの隣、一台のパソコンだけが置かれているデスクの上に鞄を置き、そのまま一番奥の社長のところまで進んだ。パソコンのモニターから目を離さないままの社長に向かって、俺は頭を下げる。
「無断欠勤、申し訳ありませんでした」
自分の靴の爪先を見つめたままの姿勢で、反応を待った。数秒あいて社長は短く息を吐き、
「橘くんみたいな優秀な人がいなくなるのは残念だな」
それだけ言った。俺に顔を向けることのないまま。
デスクに戻り、チーフにも頭を下げる。チーフはもっと酷かった。「三十分以内に荷物まとめといて」と言いながら、書類の挟まったクリアファイルをほとんど投げるようにして俺のデスクに乗せる。
「事務系の業務はほとんど山瀬くんに引き継いであるし、契約関係だけ確認できたら、もうあといいから。デスクの中も綺麗にしといてね」
目も合わせず言われて、わかりました、と返す。
必要以上に謝るのも卑屈になるのも嫌だったから、すべてを淡々と進めようと思った。幸い長居もしなくて済みそうだし、と自分に言い聞かせる。
これでもそれなりに会社には貢献してきたつもりだ。こんな扱いをされて終わるのは本意ではなかったが、不満に感じる心はひとまず殺して、さっさとここを出てしまおう。そう思いながら立ったままデスクの引き出しに手をかけた、そのときだった。
「橘さんっ」
よく通る声に呼ばれ、驚いて肩を跳ねさせる。俺だけじゃない、誰もがその声の主へ、一斉に顔を向けた。
こらえきれずに思わずあげたというような、悲痛さの滲む声で俺を呼んだのは、長岡知美だった。作業服姿の長岡が自分の席から立ち上がる。
ショートカットの髪を逆立てるほどの、猛烈な勢いで俺の前までやってくると、
「すみませんでした!」
そう言って深く頭を下げた。俺が呆気にとられているあいだに、やたら明瞭な早口でまくしたてる。
「勝手にご自宅まで押しかけて、断られたのにしつこく食い下がって。体調不良だって聞いてたのに、ご無理させるようなことしてしまって……あんなの、怒られて当然でした。橘さんは悪くないです。ぜんぶ私が悪かったんです」
「えっ、……いや、長岡は……」
「本当にっ、すみませんでしたっ」
こんなに体育会系だったのか、というずれた感想を抱かせるほど、長岡の態度はある意味、毅然としていた。直角に頭を下げた彼女の、真っ直ぐな髪の分け目を見つめて、俺は言葉を失う。
長岡は何もしてないだろ、と言いたかった。彼女がこんな、みんなの前で俺に頭を下げているなんて、耐え難かった。
でもそう言えなかったのは、長岡の真意が理解できたからだ。
社長もマネージャーもチーフも、きっと事の顛末はわかっているはずだ。俺が辞めるのは桜井里香がきっかけになってのことだと知っている。それでも、さっきの態度が答えだ。身内かわいさかは知らないが、彼らは俺をあっさり切り捨てることを選んだ。
そのことに対する長岡なりの、これは抗議だ。
それに、たぶん、謝りたいのも彼女の本心なのだろう。でも桜井里香を止められなくてすみませんでした、とは言えないから、すべてを自分のせいにしてまで俺に謝罪してくれている。
そう思うと、彼女を庇うようなことを言うのも違う気がした。
俺は桜井里香を見やる。目を丸くして長岡の姿を見つめていた。それから、俺が自分を見ていることに気づいて、――泣き出しそうに顔を歪めたが、結局何も言わなかった。
そうかよ、と思う。もういい。一生そうやってろ。
長岡に視線を戻し、未だ顔を上げない彼女に、精一杯の心を込めて伝える。
「ありがとう、長岡」
長岡の肩は震えていた。俺は彼女を、すごいひとだ、と思った。
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