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#9-6
言われた通りに少量しかない荷物をまとめ、意地でデスクを研磨剤まで使ってぴかぴかに磨き上げて、一時間後には俺は事務所をあとにした。
この雑居ビルの前を通ることはあるかもしれないが、入ることは二度とないだろう。
空は今日もよく晴れている。ぎりぎり午前中という頃合いも相俟って、やたら清々しい気分になった。
ルルちゃんとこにでも行こうかな、と考える。昼時はだいたい店にいるはずだ。弁当を買って、イートインスペースで食べながらルルちゃんと少し喋って、あとはどこかのんびり散歩でもしながらひとりで帰ろう。あんまりものを考えたくない気分だ。
駅に向かって角を曲がろうとしたところで、
「橘!」
聞き慣れた声が背中に飛んできた。振り向かなくてもわかる。
まだ昼休憩には早いだろ、俺を追って出てきたりなんかして、チーフにどんな嫌味を言われても知らねえぞ。
ゆっくり振り返った先に、山瀬がいた。思い詰めた顔だ。大袈裟だな、というように俺は笑ってみせる。
「山瀬、俺のこと探してくれてたんだってな。ごめんな、迷惑ばっかかけて」
山瀬は喘ぐように口を開け、苦しげな声を漏らした。
「迷惑なんか、橘、俺、……俺のほうこそ、ごめん」
「山瀬は何も悪くねえよ。本当に。クソみたいな会社だったけど、俺にとっては、お前と再会できたのが唯一のいい思い出だ」
「でも……俺があんなこと言わなかったら、お前、もっと俺を頼ってくれただろ?」
辛そうにそんなことを言う山瀬の姿に、罪悪感が湧く。山瀬は優しすぎるし、俺はそれに甘えすぎた。もういい加減、ちゃんと向き合わなくちゃいけない。俺は静かに大きく息を吸った。
「あの返事、してなくてごめん。今から言っていいか?」
「え、いま、……いま、か」
山瀬は面食らったように目をしばたくが、すぐに「わかった」と頷いた。
なんだか泣き出す前の子供みたいな顔だ。こんないい奴を泣かせることはしたくないな、と思いながら、俺は少し目を伏せる。
「……なあ、山瀬。いっこだけ聞かせて」
往来で向き合う男二人を、行き交う人がちらちらと見ている中。距離を半歩ぶん縮めて、ゆるく握った右手を、山瀬の胸の真ん中にそっと押し当てた。
「ここに、薬があるとする。これをふたりで飲んだら、相思相愛になって、一生一緒にいられる」
戸惑いの浮かぶ山瀬の目を、俺はしっかり正面から見つめて問いかける。
「俺はお前と飲んでもいいと思ってる、と、したら」
お前はどうする?
俺の唐突な問いに、山瀬が困惑しているのが見てとれた。それでも真剣に答えを考えてくれているのがわかって、ああ、と思う。
たぶん、山瀬は俺の予想とそう変わらない答えをくれるのだろう。それに背中を押されて、俺は自分の決断を山瀬に告げることになる。そのときをじっと待つ。
さほど長い沈黙ではなかった。やがて山瀬は俺の目を見つめ返して、「飲まないよ」と言った。
「俺きっと、死ぬ間際に思っちゃうもん。ああ、橘はあの薬のおかげで俺と添い遂げてくれたんだなあ、って。最期にお前のこと考えるなら、そんなことより、笑ってる顔思い出せたほうがいい。一緒にいなかったとしても」
真摯な声で紡がれる、その言葉のひとつひとつを、俺は聞いた。大切に聞いた。
やっぱりそれは俺の知っている山瀬という人間像と、ほとんど寸分の狂いもないものだった。その事実に酷く安らかな気持ちになる。同時に寂しかった。山瀬のシャツの胸元から、そっと手を離す。
「ありがとうな、山瀬。俺、お前がいてくれて、ほんとによかった。なのに……いっぱい傷つけた。本当に、ごめん」
山瀬が眉尻を情けなく下げている。この男がこんな俺なんかを好きになってくれたことは、奇跡だと思う。俺はお前に好かれるような人間じゃない、とは今でもはっきりと思っているけれど、だから、それはもう言わない。
その代わりとして、俺自身の選択をちゃんと伝えたかった。
小さく一歩、後ずさる。距離があいたぶん、目線の高さの差は少なくなる。友人として大好きだった男を、俺は記憶に焼きつけるつもりで見つめた。
「お前といれば幸せになれるんだと思う。お前を選ぶべきなんだと思う。でも、だめなんだ」
晴れた空が似合う男だった。こんな、今みたいな、痛みに耐えているような表情でなければ。俺だって山瀬の笑った顔が好きだった。それでも俺は今の、この瞬間の山瀬をこそ、ずっと覚えていなければならない。そう思った。
無情に青いだけの空の下で、俺は山瀬だけを見て言う。
「どうしても……不幸になってでも、俺を選ばせたい奴がいるんだ」
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