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#9-7
ペン先でシフト表をとんとん叩きながら、ルルちゃんがレジにやってきた。
「千亜貴、明日の夜勤も頼んでもいいか?」
俺は補充し終えたばかりのコーヒー豆の袋をテープでとじながら、「いいよ」と返す。
「ほかに予定とかないし、基本いつでも入れるから」
「ありがてえけど寂しい奴だな」
「うっせえ、辞めんぞ」
「それは困る」
客のいない店内には、軽快なBGMに乗って俺たちの声だけが響いた。夜十時をまわると、客の入りは一気にまばらになる。終電の兼ね合いだろう。
会社は辞めたが、ルルちゃんが正式にアルバイトとして働かせてくれることになった。三十路手前でフリーターは心許ないものがあるし、就活しないとな、とは思いつつ、あまり焦ってはいない。少しは貯金もあるし。
「いざとなったらウチで雇ってあげるわよ」と啓吾ママが言ってくれたが、俺はやっぱり接客業は向いていないと思う。コンビニのレジ打ちが限界だろう。
やるならもっとこう、黙々と作業に没頭できる系の仕事がいい。そういう意味ではあの会社は俺に向いていたな、と離れてみて思う。未練はひとかけらもないけれど。
「あー、それにしても、夜はだいぶ涼しくなったなァ。今日、中華まんめっちゃ売れたんだぜ」
「お、カレーまん残ってんじゃん。食っていい?」
「一時間後に残ってたらな」
「よっしゃ」
ルルちゃんの仮眠のためだけのピンチヒッターではない、一応ちゃんとしたスタッフとして入るようになった今では、俺もひたすら漫画だけ読んで過ごしているわけではない。コンビニというのは深夜でも意外とやることが多いのだ。まあ、それでも空き時間はだいぶ自由に過ごしているが。
暇になったので売り場に出て、適当に商品補充や棚の調整をして過ごす。そういう作業は割と嫌いじゃないから時間がすぐ過ぎる。たまに客が来ればレジカウンターに戻る。
しばらくして事務所からのっそり出てきたルルちゃんが、栄養ドリンクの棚の前にしゃがんで作業していた俺の横に来て「お前、大丈夫かよ」といきなり言った。
「え? なにが」
「例の、あれだ、金平糖男。連絡ついてねえんだろ」
「こっ……」
コンペイトウ、オトコ。間抜けかつ胡散臭い、新種の変質者みたいな呼び方に、不覚にも吹き出す。ルルちゃんは「笑ってんじゃねー」と憤慨してみせた。
「人がせっかく心配してんのによぉ。あーっと、ぜん、だったか?」
「うん。ルルちゃん、善の心配してんの?」
「ちげーよバカ。おめーだよ」
立ち上がった俺の背中を小突きながら、ルルちゃんはぶっきらぼうに続ける。
「なんかケロッとしてっけど、見てて逆に心配なんだよ。あれ以来、飲み行ったりもしてねえだろ。実は結構、無理してんじゃねーのか」
言葉も仕草も乱暴だが、話の切り出し方を見るに、おそらく前から言い出すタイミングを窺っていたのだろうな、と予想がついた。ルルちゃんって本当にいい奴だ。身体の相性さえ良かったら完璧だったんだけどなあ、とつくづく。
別に平気だよ、と俺は肩を竦めて答えた。
「飲みに行かないのは、なんとなくだよ。オトコ漁る気にもなんねえし、出かけるより家でぼんやりしてたいだけ。無理とかしてねえよ。だいたい落ち込む理由がねえもん」
「ほんとかよ」
「ほんとほんと」
軽く笑って、棚の商品に視線を戻す。オロCやらリポDやらの瓶をかちゃかちゃ言わせながら綺麗に整頓していく。ラベルがきちんと正面を向くように一本一本直していくと、とっ散らかっていたものが次第に秩序を取り戻し始めて、まるで人の頭の中だ。
「俺さ、啓吾ママの話聞いて、ちょっとすっきりしたんだ」
話し相手はルルちゃんだが、どちらかといえば独り言みたいな気分で、俺は口を開く。
「出てった理由とか、本当は俺のことどう思ってんのか、とか。わかんないことはいっぱいあるけどさ……俺ってもともと、あいつのこと、なーんにも知らなかったし。あいつの考えなんて、わかんなくて当然なんだよな」
俺はあいつのフルネームさえ言えない。好きな食べ物、好きな映画、なんにも知らない。あいつの髪の色がトゥヘッドと呼ばれることも知らなかったし、どこの国の血が流れているのかも。
ゼロ距離であんなに触れ合っていたくせに、知っていることのほうがあまりにも少ないのだ。
知ろうとしなかったから。
その事実を突きつけられたときは、後悔もしたが。開き直ってみれば、それは救いだと思えるようになった。
「知らない、わかんない、ってことが、わかった。だからさ……平気だよ」
今は、あいつのことを知りたい、と思っている。少しでも多く知りたい、あの目に映る世界がどんな色をしているのか、なにを見て生きてきたのか。
知ったぶんだけ、きっとあいつがわかるようになる。
その余地がいくらでもある、というのはきっと、俺にとっての救いだ。
そう思ったのだ。
「焦らなくても、きっとそのうち、どっかで会える。ような気がする」
俺の言葉を黙って聞いていたルルちゃんは、「そうか」とだけ言って頷いた。俺の頭をぽんぽんとふたつ軽く叩くと、それっきり事務所の中へと消えていった。
間もなく日付も変わるというのに、昼間と変わらない光度を保つ店内で、俺は再びひとりになる。
名前しか知らない女性アイドルが、不自然なほど明るい声で新曲の宣伝をしているのを流し聞きながら、ふと作業の手を止める。
――ルルちゃんのせいだ。考えないようにしてたのに。
一度、善のことが浮かぶと、しばらく頭から消えてくれない。最近は多少ましになってきたけれど、家にいるといっそう酷いから、ここ数週間は意味もなく散歩ばかりしている。こんなこと、ルルちゃんにも誰にも、絶対に言わないけれど。
今なにしてんだろうとか。
どこにいるんだろうとか。
今夜は誰と寝るんだろう、……とか。
その存在にまつわる、とりとめのないことで頭がいっぱいになる。こんなのは初めてで困っている。
決して落ち込んだ気分になるわけではないのだ。ただ、思う。
会いたい、と思う。
自分でも柄じゃないと笑えるほどの、すごく透明な気持ちで。
きっと髪を染めることはもうしないのだろうから、遠くからでもわかるはずだ。光の色。どこかで見つけたら、絶対に走って追いかける。何を置き去りにしたとしても、もう一度、あの記号みたいな名前を呼ぶ。
いつか、どこかで、そのときがくる。なぜだか俺は確信めいたものを抱いていた。だからルルちゃんに言ったことは本心だ。俺は平気。辛くないし、焦ってもいない。
そして、夢にも思っていなかったのである。
その「いつか、どこか」が、まさか「今夜、この場」だなどと、到底。
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