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#9-8
日付が変わってから、十分も経っていなかったように思う。
俺はレジで精算業務の準備をしていた。
相変わらず店内BGMだけがバカみたいに賑やかで、ここに毎日ずっといるルルちゃんはよく発狂しないなあとか思いながら、開けたレジと手元に視線を集中していた。
そのBGMに、来客を知らせるメロディが突如、重なる。
「いらっしゃいま」
せ、を言い終わる前に、俺は顔を上げた。全開になる自動ドア。それをくぐって店内に入ってきたのは、善だった。
目を疑ったけれど、善だった。
ついに幻覚が見えたのかと思ったけれど、本物だった。
白いシャツに細身のジーンズ。見慣れた格好で、夜にはその明るさが余計に浮き彫りになる金色の髪をさらけだして。
再会というのは、こんなにも呆気なく訪れていいものなのかと、俺の胸にはいっそ戸惑いすら湧いた。
その姿に目を奪われたっきり、石化でもしたように動けなくなった俺とは対照的に、善は迷いなくすたすたと歩いてきた。俺の立っているレジの真ん前まで。
ちらっと目が合った気がしたけれど、実際はどうかわからない。カウンター越しに俺と向き合ったときには、善の視線は俺を素通りして、後ろのほうに向けられていた。手を伸ばせば届く距離で、薄い唇がひらく。
「十六番」
「……え?」
「煙草。ひとつ」
淡々とそれだけ言うと、コイントレーに小銭を置いた。五百円玉と百円玉。はっと我に返って俺は振り向くと、壁面のラックに並んだ煙草をひとつ取り出す。善がうちに置いていったのと同じ、白い箱。
バーコードをスキャンする。レジから音声が流れて、タッチパネルに善が触れる。預かり金を打ち込み、釣り銭を取り出して善に手渡す。ここまで、無言。
善は何も言わなかったし、俺はといえば、言いたいことはたくさんあった、いくらでもある、のに。
いざ目の前にすると、言葉が出てこなかった。
ただ善の顔を、少し前まで毎日見ていたその顔を見つめるばかりで、それが精一杯で。何かを言おうという発想に至らなかった、というのが正しいのかもしれない。
俺から受け取った九十円をすべてレジ横の募金箱に入れ、右手を煙草の箱にのせると、善はようやく俺を見た。
レジカウンターを挟んで、たぶん一メートルも離れていない。いつもの貼りつけたような笑みはそこになかった。怖いくらいの真顔。青い瞳が真っ直ぐに俺を射抜いている。
「千亜貴」
耳に馴染んだ声が俺の名前を呼ぶ、のが、懐かしく響いた。渇いた植木鉢に注がれた水のように、頭の中に一瞬で染みこんだそれは、両目の奥のあたりに溜まって急に熱くなった。あんなにうるさかった店内BGMはとうに消えている。
「あのとき言ったこと、ほんと?」
「……、……なに……?」
聞き返した声は、掠れた弱い音にしかならずに落ちるけれど、露わになった動揺を恥ずかしいと思う余裕さえなかった。善が答える。
「俺の薬になってくれるって」
アホみたいに開いたままの俺の唇が、はく、と空気を吸い込む。
あの明け方に交わした短いやりとりが、現実のできごとだったのか否か、今の今まで俺にはわからなかったのだけれど。どうやら微睡みの中で見た夢ではなかったらしい。
あのときなにも言わなかったくせに、今さら訊くなんて、ずるくないか?
俺が返す言葉を見つけるより先に、善はとある駅名を口にした。
それは聞き覚えのある地名だったが、ずいぶん久々に耳にするものだった。俺たちの通っていた高校の最寄りからいくつか離れたところだ、と思い出せるまでに少しかかった。
もう長いこと帰っていない、地元の駅の名前。
「明日、終電で来て」
善はそう続けると、煙草を掴み、俺の返事を待たずに踵を返した。現れたときと同じように、淀みない足取りで店の出口へと向かっていく善の後ろ姿に、思わず声をあげる。
「ぜ……善!」
自分でも驚くくらい必死な声が出てしまって、そのせいか知らないけれど、善の足が止まった。振り返った善は、初めてほんの僅かにだけ微笑むと、
「似合うね、そのカッコ」
それだけ言ってすぐに再び歩きだし、あっさりと自動ドアの向こうに消えてしまった。
残された耳にうるさいBGMが舞い戻ってくる。呆然と自動ドアを見つめて突っ立っていた俺は、それによって意識を引き戻された。
なんだか脳裏にかかっていた靄が晴れたような感覚があって、今度こそ立ったまま見た夢だったんじゃないかと頭を振る。しかしレジの画面には善の煙草の銘柄と、お釣り九十円、の表示がしっかりと残っていた。
――あいつ、なんて言ってた?
妙に冴えたようになっている頭で、思い返す。駅の名前。明日、あした。終電で。はっとして、考えるより先に身体が動いた。事務所へ飛んでいく。
「ごめん、ルルちゃん。明日の夜勤、だめんなった」
ひといきに言う。デスクに頬杖をついてうとうとしていたらしいルルちゃんは、俺の勢いに何事かという顔をしていたのだが、すぐには返事をしなかった。珍獣か何かに向けるような目で俺を見ていたかと思ったら、
「……お前、どうした? その顔」
と呟いた。
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