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#10 ノア

普段使わない路線を乗り継ぎ、数年ぶりに降り立った土地は、薄っすらと潮の匂いがした。 住んでいた頃には気づかなかったそれを、ゆっくりと肺に吸い込む。終電の利用者はまばらで、同じ駅で降りた人数も数えられる程度だった。 実家と絶縁状態になってから、地元には一切近づくことはなかった。そのためだろうか。実家の最寄り駅でもないし、あまり縁のなかったはずのこんな場所ですら、酷く懐かしく感じた。 一カ所しかない改札を出て、寂れた構内に善の姿を探す。 何せ、この駅に終電で来い、としか言われていないのだ。来れば善がいるのだろうと勝手に思っていたが、金髪頭は見当たらない。 外のベンチに腰をおろして十分ほど待ってみたが、善が現れる気配はなかった。 俺は一度立ち上がり、付近をぶらついてみることにした。 駅前にはコンビニや居酒屋など、まだ明かりのついている建物が数軒並んでいた。学習塾もある。 高校生らしい長身の男子がちょうど出てきて、自転車に跨がり颯爽と去っていった。俺たちの後輩かもしれない。白のカッターシャツに黒いスラックスという特徴のない制服だから、見た目では判断できなかったけれど。 コンビニに入ってホットの缶コーヒーを一本買う。その温かさを有り難く感じるほどまだ寒くはないが、風はもう完全に秋になっていた。プルタブを上げるとぷしゅっと弾けるような音がする。 虫の声が控えめに響いているのを聞きつつ、コンビニの前に突っ立ったまま、缶に口をつける。 俺は、善を見て安心していたんだな。 半分よりもやや太った月を見上げながら、唐突に思った。 善の言った通りだ。あいつを自分より恵まれていない相手だと見なして、そばにおいて安心していたかったんだろう。ネジの外れたおかしな奴、そう思っていたのも事実だ。 俺は善を飼っているつもりでいたが、そんな俺を善は、腹の中では嘲笑っていたのかもしれない。 あいつが生身の人間だということを、たぶん、どこかで信じていなかった。 追いかければ逃げていく、逃げればついてくる月のように、いわゆる一般社会から少し離れたところに浮かんでいて、決して裏側を見せない。そういう非現実的な存在のように感じていた。 善がいなくなってからずっと考えていたことが、糸を紡ぎ布を織っていくように、整然と繋がって形になっていく。 母親の幼いおまじないを心の拠り所にするくらい、善は、ただの人間だったのに。 飲み干したコーヒーの缶を捨て、駅へ戻ってみる。どこを見てもやっぱり善の姿はなく、やや途方に暮れた気持ちで、俺はもう一度さっきと同じベンチに座った。 まさかこれも復讐の一環じゃねえだろうな。一晩外に放置されたくらいで死ねる季節じゃねえぞ。何時間でも待ってやる。 怒りというより、何だろう、子供の遊びに付き合う親というのはこんな気持ちなんだろうか。不思議な気分で俺は善を待った。 到着から四十分ほど経って、やっと善は現れた。 俺の座るベンチからちょうど見える、車道の向こうの曲がり角を曲がって、ゆったりとした足取りで向かってきた。片手に何か提げている。 近くまで来て足を止めた善は、少しばつが悪げに笑って小首を傾げてみせた。 「ほんとに来てくれた」 俺は座ってジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、ひとまず怒った顔をつくってみせる。 「おせーんだよ。アホ」 「うん。ごめんね」 善が持っているのは、新聞紙に包まれた小さな花束らしかった。下向きに持っているものだからよくわからないが、白と黄色が基調の、どうやら仏花だ。 「来て」と言って善は歩き出した。俺が言われるままついていくことを微塵も疑っていない態度。実際、俺は慌てて立ち上がると、その背中を追った。善の曲がってきた角へと真っ直ぐに進んでいく。

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