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#10-2

街灯の明かりしかない住宅街をしばらく歩いた。 善は何も言わないまま、特に俺に構うこともなく、一定のペースで夜道を進んでいく。 俺は道順を記憶しておこうと辺りをきょろきょろしながらその後ろをついて歩いていたが、みっつめの角を曲がったときに諦めた。暗いし目印になるようなものは自販機くらいしかないし、覚えていられない。何も考えず善についていくだけにしよう、と思い直した。 そうなると今度は沈黙が気になりだして、目の前を行く背中に言葉をかけてみることにした。 「なあ、啓吾って人、知ってるだろ?」 静かな夜道に自分の声がやけに響くような気がして、ボリュームを絞りながら言う。 「オネエの。名字は知らねえけど。俺、あの人の店、よく行くんだ」 善の反応は見えない。歩む調子に変化はなかった。構わず続ける。 「まさかお前と知り合いだとは思わなかったけど。お前のこと心配してたよ。元気でやってんのかな、って」 やや広めの道に出る。多くはないが車の通りがあった。横断歩道の前で信号待ちをするために、俺は善の後ろではなく隣に初めて並んだ。 善は歩行者用ボタンを押して、進行方向に目を向けたまま、口を開いた。 「啓吾さんね。わかるよ。お店も知ってる」 「え。じゃあ」 「あの人に会いたくないから、あのへん近づかないようにしてたんだ」 予想外の答えに、思わず言葉を詰まらせる。そんな俺をよそに善はふ、と口元を緩めて、 「いい人って苦手だ」 そう呟いた。信号が変わる。再び歩き出す善を、俺はまた後ろから追う。 まあまあの距離を歩いた。道中、何人かすれ違う歩行者がいたが、善の目立つ容姿をじろじろ見るような人間はいなかった。ちらっとくらいは見ていたのかもしれないが。 ついに善が立ち止まったのは、一軒の家の前だった。 大きくはないが上品な雰囲気で、しかしどこか寂しげな佇まいの日本家屋。スライド式の引き戸は一部が磨りガラスで、その向こうは真っ暗なようだった。郵便受けにはダイレクトメールの類が溢れている。 しんと静まりかえった、人の気配のないその家の前で、善は俺に「開けて」と言った。 「鍵。持ってるでしょ?」 「……あ」 一瞬なんのことだ、と思うが、すぐに理解した。ボディバッグを開き、シャネルのキーリングを取り出す。 善の持っていた、もうひとつの鍵。引き戸の真ん中に差し込み捻ると、やや鈍い音をたてて解錠された。ありがと、と言って善は自然な流れで俺の手から鍵を受け取る。 がらりと戸を開けた善に続き、俺も躊躇いがちにその敷居を跨いだ。 善が壁のスイッチに触れると、薄ぼんやりとした白い照明に、殺風景な玄関と奥に伸びる廊下が照らし出された。 三和土に一足も靴はなく、靴箱の上の置物だとか、玄関マットだとか、そういった一切のものもなかった。 さっさと中にあがってしまう善に、俺も慌てて靴を脱ぐ。 外観から受けた印象の通り――否、それ以上にその家の中は、物言わぬ寂しさでひたひたと満ちているようだった。 左手側の部屋のひとつに善が入り、明かりを点ける。 畳敷きの和室で、家具家電の類はなく、入り口とは対角線上の角に、扉の閉まった仏壇が置かれていた。さほど大きいタイプではないが、重厚な色合いのそれだけが部屋に鎮座している様子は、静かな迫力があった。 善は無言のまま仏壇の前に膝を折って座ると、扉を左右に開いた。中に仕舞われていた仏具を、慣れた手つきで並べ始める。 俺はどうしていいかわからず部屋の入り口に立ち尽くしていたが、善が花立てを手に部屋を出(おそらく台所で水を入れてきたのだろう)、戻ってきて座り直したタイミングで、その背中の斜め後ろに座ることにした。 仏壇の中には、遺影が三枚、並べられていた。 中央は女性、左右は男性。右側の男性は東洋人の外見だが、あとの男女は彫りの深い顔立ちにブロンドだ。 それだけで、誰なのかおおよそ検討はつくが、俺は黙って善の様子を見守っていた。 持っていた花の包みを剥がして、花立てに供える。 蝋燭や線香は見当たらず、代わりに善はポケットから煙草とライターを取り出すと、一本口に咥えて火を点けた。 ゆっくりと吸い、長く長く煙を吐き出してから、それを香炉にそっと立てる。室内に燻る煙草の匂いが広がった。

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