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#10-4

やがて沈黙を破ったのも善だった。 やおら立ち上がり、部屋を出ようとするので、俺も急いであとを追う。少しだけ痺れた足が焦ったようにもつれる。 廊下を挟んで反対側の、もうひとつ奥の部屋を善は開けた。和室ではなく、八畳ほどの広さのフローリングに、パイプベッドが一台。カーテンはなく、磨りガラスの窓が露わになっていた。 壁際に段ボールの箱がふたつ積んで置かれていて、なんとなく直感で、それが善の荷物のすべてなのだろうと思った。愛想のない蛍光灯の明かり。窓の外の闇夜。 「千亜貴が」 ベッドに腰かけながら善が俺の名前を発音する。ぎし、と大きく鳴るスプリングの音が、ベッドの簡素さをわかりやすく知らせる。俺はそのそばまで近づき、立ったままでいた。俯き加減の善のつむじが見える。 「家に来た女の子、怒鳴りつけて追い返したとき。完全に俺のものにできたと思った。俺のとこまで堕ちてきてくれた、って」 「……もとから同じ底辺なんじゃなかったのかよ」 俺の言葉に善は乾いた笑いを漏らす。そこでようやく俺の顔を見たので、やっと、明るいところでまじまじと向かい合うことができた。 昨日は咄嗟で気づかなかったが、顎のあたりが少し痩せたようだった。ちゃんと飯食ってたのかよ。目元も血色が良くない。 「でもねえ、急に……怖くなっちゃって」 言いながら、善は片手をゆるりと持ち上げて俺のほうに伸ばした。指先で指先に触れてくる。善のそれはやっぱりひやりと冷たく、差し出せば幾分迷いのある仕草で絡められた。 「千亜貴が俺のものになっちゃったら、俺はどうなるんだろう、って」 握った手を引き寄せられ、「千亜貴はこの世にひとりしかいないから」そう言う善の頬に、俺の手の甲が触れる。 「代わりがきかないものなんて、もうずっと持ってなかったから。間違って壊しちゃったり、どっかに落としちゃったりしたら、二度と戻ってこない。そしたら俺だって、前の俺には戻れない。千亜貴をなくしちゃった俺、になるしかない」 金色のまつげを伏せながら頬ずりされて、久々に感じるなめらかな人肌の感触に、俺は息を飲んだ。善の指にやわく力がこもる。 「千亜貴を知る前の俺に、戻れなくなる」 声が低く掠れて、それはどちらかというと穏やかな響きを孕んでいた。のに、俺はそこに、祈りに似た悲痛さのようなものを聞き取ってしまう。自意識過剰だろうか。だって、青い瞳が、今にも溶けだしそうに潤んで俺を映すから。 「……そうなるくらいなら、離れたところでずっと千亜貴のこと、考えながら生きていくほうがいいって……思ったんだよ。離れてれば、なくさないから」 もうなんにも、なくすの、嫌なんだ。 独り言のように呟いて善は、俺の手を離した。今度は両手をこっちに伸ばしてくる。まるで抱っこをせがむ子供だ。吸い込まれるようについ、二歩ぶん距離を縮めてしまう。 長い腕が腰に回され、立ったままの俺の鳩尾のあたりに、善の顔がうずめられた。 こそばゆい。それに、言ってることとやってることがちぐはぐだ。ほんの少し伸びた金髪を指先でつまみながら、俺は訊く。 「だったら、なんで……会いに来たんだよ」 俺を試すようなことを言って。こんな、善にとって秘密の巣穴のような場所まで、進入させて。どうしたいんだ。そう尋ねれば善は「死にたくなったから」と答えた。 「生きるために離れようと思ったのに、離れてたら死にたくなった。困る。千亜貴のせいだ」 俺の腹に顔を押しつけたまま、もごもご動く善の口が擽ったい。 ここで死を持ち出すなんて卑怯だ。だってお前は俺にあのとき、死んでもいいよ、って言っただろ。そして殺してみせてくれただろう、真似事だったけれど。俺はそれが嬉しかったのに。 胸が苦しくなってくる。肺をミイラみたくぐるぐる巻きにしてじわじわ締め上げられているようだ。心臓も。俺は絞り出すように言葉を吐いた。 「そういうのは、連帯責任だろ。俺だけのせいじゃない」 すると善は顎を俺の腹にくっつけたまま、顔を上げて俺を見てきた。 「そうなの?」 「そうだよ」 「だって、俺ばっかり……ズルい」 拗ねた幼児のように、不満げに唇を尖らせる。俺は思わず片手で自分の頭を抱えた。 ずるい、って。くそ。なんだよそれ。 意味わかんねえけど、善を、可愛いと思ってしまった。初めて。 お互い様だ、と教えてやったら、どんな顔をするのだろうか。俺だって会いたかった、お前のことばかり考えてた、って。 「……千亜貴? どうしたの」 不思議そうな声が下から追い討ちをかけてくる。腰に回された手がぎゅっと強くなった。 「俺、また変なこと言ってる?」 「……言ってる。理解できない」 「そっか。ごめんね」 再び顔をうずめられ、縋るようにしがみつかれる。前に交わしたのとほとんど同じやりとり。でも、善が不安げなことに俺は気づいて、少し、慌ててしまう。 「謝んな、ごめん、違う。そうじゃ、なくて……」 金色の髪をくしゃくしゃと撫でてみると、善は少しだけ顔を上げた。二重の目で見上げてくる様子は、猫みたいだ。でも善は猫じゃないし、もちろん、言葉の通じないエイリアンでもない。ひとりの人間だ。俺と同じで、ぜんぜん違う、ただの人間。 「わかりたい、って、思うよ」 髪の毛の奥に埋もれた、しっかりと硬い頭蓋骨の感触を味わうように、善の頭を両手で抱く。 「お前をわかりたい」 理解できないことも、たぶんある。けど。それならそれで、理解できないってことをちゃんとわかるまで、確かめたい。 違う人間だ。百パーセントは無理だ。それは誰だって同じだろう。俺たちがお互いを諦める理由にはならないだろう。 海の色をした善の瞳と、俺のが、しっかりと直線で通じ合っていた。磁力で引き寄せられるように、いつのまにか唇が触れた。 数週間ぶりなのに、寸分の狂いもなく重なる。さらに深く。混ざるように交わっていく。 「……ちあき」 吐息さえも混ざり合う中で、善が呼ぶ。ねだるように唇の表面が擦れる。 「俺、千亜貴に抱いてほしい」 熱っぽい声だった。泣き出しそうに危うげでもあった。その声の熱さで俺の脳が、バターみたいに融けていく。揺らいでいく。 「いま、ここで。抱いてよ、千亜貴」

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